「マクシミヌス・ダイア」の版間の差分

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[[画像:Maximinus2.jpg|thumb|200px|マクシミヌス・ダイアの発行したフォリス銅貨]]
'''ガイウス・ウァレリウス・マクシミアヌス'''(Gaius('''{{lang|la|Gaius Valerius Galerius Maximinus}}''', Maximinus、[[270年]][[11月20日]] - [[313年]]7月または8月)は、[[308年ローマ皇帝]]から(在位:[[313308年]]にかけての - [[ローマ皇帝313年]]である。元は'''ダイア'''(Daia)という名前であった。[[ガレリウス]]帝の甥(同帝の姉妹の息子)である。
 
== 略歴 ==
彼は、[[ダキア]]属州([[マケドニア属州]]と共に[[イリュリクム]]に属した)の[[ドナウ川]]周辺に生まれた農民であった。軍に入隊して優れた殊勲を上げ、[[305年]]には母方の伯父[[ガレリウス]]帝に引き立てられて[[副帝]]の地位を授けられ、[[シリア属州]]と[[エジプト]]属州とを支配するようになった。
 
[[308年]]、[[リキニウス]]帝が[[アウグストゥス (称号)|正帝]]となった後、マクシミヌス・ダイアと[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティヌス]]はどちらも'' "filii Augustorum''"(正帝の息子)を名乗った。そしてマクシミヌスは、[[310年]]の[[サーサーン朝]][[ペルシア]]との戦役から後は、はっきり正帝として振舞ったと思われる。
 
[[311]]年にガレリウス帝が死去し、マクシミヌス・ダイアはローマ帝国の東側をリキニウス帝と分割することになった。リキニウス帝はコンスタンティヌス帝と連携を始めたので、マクシミヌス・ダイアは副帝を僭称してイタリアを支配する[[マクセンティウス]]と陰で連携するようになった。[[313年]]にリキニウス帝とはっきり決裂したが、[[小アジア]]のヘラクレア・ポンティカ(Heraclea (Heraclea Pontica) 近郊にて[[ツィラルムの戦い(Battle]] ([[:en:Battle of Tzirallum|en]]) に大敗した([[4月30日]])結果、[[ニコメディア]]を経由して[[タルスス]]に逃亡し、8月に死亡した。
 
キリスト教の史料においてマクシミヌス・ダイアは、ガレリウス帝が解除したキリスト教徒の迫害令を再び執行したとのことで悪く記述されているが、客観的な記載ではない可能性がある。
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* [http://www.roman-emperors.org/daia.htm DiMaio, Michael, "Maximinus Daia (305-313 A.D.)", ''De Imperatoribus Romanis''] (英語)
* [http://www.newadvent.org/cathen/10077b.htm Catholic Encyclopedia article] (英語)
 
 
{{先代次代|[[ローマ皇帝一覧]]|[[308年]] - [[313年]]<br>[[ガレリウス]]、[[リキニウス]]、 <br>[[コンスタンティヌス1世]]|[[ガレリウス]]、<br>[[コンスタンティヌス1世]]|[[コンスタンティヌス1世]]、</br>[[リキニウス]]}}
 
{{DEFAULTSORT:まくしみぬす_ たいあ}}
[[Category:古代ローマ人]]
[[Category:ローマ皇帝]]