「畠山高政」の版間の差分

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{{武士/戒名|多宝寺高旭空林}}
{{武士/墓所|観心寺}}
{{武士/官位|修理亮[[紀伊国|紀伊]]守[[尾張国|尾張]]守[[播磨国|播磨]]守}}
{{武士/幕府|[[室町幕府]]河内守護}}
{{武士/氏族|[[畠山氏]]}}
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{{武士/終了}}
 
'''畠山 高政'''(はたけやま たかまさ)は、[[室町時代]]の[[河内国|河内]]の守護大名・戦国大名。畠山氏の当主。
 
== 生涯 ==
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天文20年([[1551年]])に河内守護代の[[遊佐長教]]が[[暗殺]]されると、[[安見宗房]](直政)を守護代とする。その後、しばらくは畿内で覇権を掌握した三好長慶に従属したが、天文22年([[1553年]])から再び対立し、敗れた高政は[[紀伊国|紀伊]]に逃れた。
 
その後は[[六角義賢]]と手を結んだうえで[[三好氏]]と抗争を続けていたが、永禄元年([[1558年]])11月30日、[[守護代]]の[[安見宗房]]の離反によって居城の河内[[高屋城]]を追放されて[[堺市|堺]]に逃れる。そこで、高政は[[三好長慶]]と和睦して永禄2年([[1559年]])8月2日に三好氏の後押しを受けて、安見らを追放して高屋城に復帰した。
 
だが永禄3年([[1560年]])には安見を守護代に戻して長慶と再び対立する。そのため、その年の11月13日に、三好軍が高屋城を占拠して高政・安見らは再び追放されてしまった。