「姉小路公知」の版間の差分

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'''姉小路 公知'''(あねがこうじ きんとも、[[天保]]10年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[1839年]][[1月22日]]) - [[文久]]3年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[1863年]][[7月5日]]))は、江戸時代末期の[[公家]]。位は従四位下、維新後に生前の功により正二位を追贈。父は[[姉小路公前]]、公前の実弟叔父[[澤宣嘉]]がいる。
 
== 来歴 ==
[[安政]]5年([[1858年]])に幕府とアメリカの間で調印された条約勅許([[日米修好通商条約]])に反対した[[廷臣八十八卿]]の指導者。文久2年([[1862年]])10月、右近衛権少将となり、幕府への[[攘夷]]督促の副使として、正使[[三条実美]]とともに江戸に向かい、[[勝海舟]]と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事[[参与]]となり、三条とともに攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)に深夜朝議からの帰途、京都[[朔平門]]外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で死去、享年27。
[[1839年]]、公卿[[姉小路公前]]の子息として生まれる。
 
[[安政]]5年([[1858年]])に幕府とアメリカの間で調印された条約勅許([[日米修好通商条約]])に反対し[[廷臣八十八卿]]の指導者として活動した。文久2年([[1862年]])10月、右近衛権少将となり、幕府への[[攘夷]]督促の副使として、正使[[三条実美]]とともに江戸に向かい、[[勝海舟]]と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事[[参与]]となり、三条とともに攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863([[1863]])に深夜朝議からの帰途、京都[[朔平門]]外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で死去、享年27。
公知の暗殺犯は現場に残されていた刀などの物証から幕末四大人斬りの一人、薩摩藩の[[田中新兵衛]]と目され田中が捕らえられたが、取り調べ中に田中が自殺したため、真相は不明。暗殺された理由としては、攘夷派であった公知が勝に説得されて開国に傾いたからともいわれているが、真相は今もって謎とされている。朝廷は島津久光に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業という説もある。結果として薩摩藩は御所の乾御門の警備を外された。
 
墓所は[[京都市]][[上京区]]の[[清浄華院]]。
 
== 暗殺の犯人 ==
公知の暗殺犯は現場に残されていた刀などの物証から幕末四大人斬りの一人、[[薩摩藩]]の[[田中新兵衛]]と目され田中が捕らえられた。しかし、取調べ中に田中が自殺したため、真相は不明。暗殺された理由として、攘夷派であった公知が勝に説得されて開国に傾いたからため、もいわているが、真相は今もって謎とされている。朝廷は島津久光に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業という説もある。結果として薩摩藩は御所の乾御門の警備を外された
 
朝廷は[[島津久光]]に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業という説もある。結果として薩摩藩は御所の[[乾御門]]の警備を外された。
 
== 関連項目 ==