「ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク」の版間の差分

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[[ボヘミア]]で早期の学習を終えると、[[オランダ]]や[[ドイツ]]各地を旅した。この間に[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]]に学んだかもしれない。ドイツから[[サンクトペテルブルク]]に行き、その地で[[エカチェリーナ2世]]の寵臣となった。しかし、しばらくすると、秘密警察によってエカチェリーナ2世暗殺の謀議に関与したと告発されて、ペテルブルクを脱出した。ドゥシークの生涯にわたる王党派への思い入れや、惚れ惚れするような美男子ぶり、女帝エカチェリーナの美青年に対するある種の傾向からすると、別の可能性もありえなくない。
 
ペテルブルクを去った後、1年間[[リトアニア]]のラジヴィウ大公の音楽監督をつとめ、それから[[1780年代]]半ばに、[[ピアノ]]と[[グラスハーモニカ]]の[[ヴィルトゥオーゾ]]としてドイツに旅立った。後に[[フランス]]に行って[[マリー・アントワネット]]の寵臣となり、[[1788年]]には[[ミラノ]]への演奏旅行を断念するように言い渡された。[[1789年]]の[[フランス革命]]が勃発すると、ドゥシークはフランスから[[イングランド]]に行き、[[ロンドン]]に向かった。この間も相変わらず浮名を流しており、ハープ奏者で作曲家の[[ヤン・クシチテル・クルンプホルツ|ジャン=バティスト・クルムフォルツ]]の妻と[[駆け落ち]]している。このためクルムフォルツは、[[セーヌ川]]に[[|身を投げた]]。
 
ロンドンでも名演奏家としてのキャリアが開花し、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]から大絶賛された。ハイドンは、自分とドゥシーク作品を目玉にしたザロモン演奏会のあと、ドゥシークの父親に熱のこもった手紙を送った。ロンドンでドゥシークは、楽譜出版社コッリ(Corri)に協力して会社を興すが、後でこれは[[破産]]することになる。やがてドゥシークはクルムフォルツ夫人を捨てて、コッリの娘[[ソフィア・コッリ=デュセック|ソフィア]]と結婚した。ソフィアは歌手・ピアニスト・ハーピストであり、後に自力で有名になった。二人の間には娘ができたが、結婚生活は不仕合わせで、二人はそれぞれ密通を重ねた。
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== 作品とその受容 ==
 
ドゥシークは、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]や[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]など、[[ロマン派]]のピアノ曲の作曲家の重要な先駆者である。同世代のその他の後期古典派の作曲家に比べると、ドゥシークはいちじるしく「モダン」に響く曲が多い。それでも、その作品は作曲された時点で流行してはおらず、後代の作曲家たちがドゥシークに影響されたかどうかは、今なお疑問が少なくない。ドゥシークは、独自の線を進んで模倣者を呼ばず、その意味ではどことなく[[カルロ・ジェズアルド|ジェズアルド]]に似ている。様式的に、[[古典派音楽]]よりも[[ロマン派音楽]]と多くの共通点をもち、ほとんどの作品は、作曲年代から20年ほどのちの、ロマン派音楽の始まりになって、ようやく受容されたのである。
 
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* [http://www.allpianoscores.com/dussek.html Jan Ladislav Dussek] Free Piano Scores
 
[[Category{{DEFAULTSORT:古典派の作曲家|とうしえく やんらしすらふ]]}}
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[[cs:Jan Ladislav Dusík]]