「ルドルフ・フィルクスニー」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[1912年]][[2月11日]]、[[ブルノ]]から東に60kmほど離れた[[モラヴァ川 (中欧)|モラヴァ河]]畔の[[:en:Napajedla|ナパイェドラ]] ([[w:Napajedla|Napajedla]]) という町で生まれた。幼い頃からピアノ演奏で天賦の才能を発揮し、5歳の時知人の紹介でヤナーチェクと会った。この時、フィルクスニーが[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の[[スラヴ舞曲]]を弾いたところ、ヤナーチェクはテンポが違うと叫んで弾いて見せたという。さらにヤナーチェクは[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノソナタ第14番 (ベートーヴェン)|月光ソナタ]]の終楽章を弾いて聴かせた。その演奏に魅了されたフィルクスニーは、ヤナーチェクの下で音楽を学ぶことができるようにしてくれと母親に懇願した。それ以来、フィルクスニーはヤナーチェクの下でピアノと作曲を学ぶこととなった。フィルクスニーは3歳の時に父親を亡くしており、またヤナーチェクは息子を2歳半でなくしている。互いに擬似親子的な愛情の交流があったといわれている。
 
8歳で[[ブルノ音楽院]]に入学。[[1922年]]、10歳にして[[プラハ]]でピアニストとしてデビューしている。その後、[[プラハ音楽院]]に移り作曲を[[ルドルフ・カレル]] ([[w:en:Rudolf Karel|Rudolf Karel]]) に、ピアノを[[ヴィレーム・クルツ]]に師事している。
 
[[1933年]]、[[ロンドン]]・デビューし、以来国際的な活躍を続けたが、[[1938年]]に[[ナチス・ドイツ]]占領下に置かれた政府から親善使節にとの要請があったのを拒否し、国外追放処分となった。彼はまず[[パリ]]へ逃れ、次いで[[ロンドン]]にあった亡命チェコ政府の使節として[[アメリカ合衆国]]に渡り帰化した。