「天草四郎」の版間の差分

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江口磐世☆ (会話 | 投稿記録)
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[[肥後国]]南半国の[[キリシタン大名]]で[[関ヶ原の戦い]]に敗れて斬首された[[小西行長]]の遺臣・[[益田好次|益田甚兵衛]]の子として母の実家のある[[天草諸島]]の[[大矢野島]](現在の[[熊本県]][[上天草市]])で生まれたとされる。しかし、宇土郡江部村(現在の[[宇土市]])または[[長崎市|長崎]]出身という説もあり、出生地ははっきりしない。[[益田氏|益田家]]は[[小西氏]]滅亡後[[浪人 (武士)|浪人]][[百姓]]として一家で宇土に居住したという。頭がとても良く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった。
 
小西氏の旧臣や'''[[キリシタン]]'''の間で[[救世主]]として擁立、神格化された人物であると考えられており、さまざまな[[奇跡]](盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海を歩いた等)を起こした伝説や、四郎が[[豊臣秀頼]]の[[落胤]]・[['''豊臣秀綱]]'''であるとする風説も広められた。
 
島原の乱では[[十字架]]を掲げて戦闘を指揮したと伝わり、幕府軍の原城総攻撃により火の中で自害したと言われている。また死後に首を切断されて幕府へ送られたと言う話もあり、首は長崎の原城大手門前にて晒されたとも伝わる。そのとき幕府側は天草四郎の姿素性の情報を全く知らず、原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者、山田右衛門作を除く)にされている為、旗印の近くにあった立派な服装を着た少年の死体を天草四郎と断定したと言われている。その為、[[首実検]]しようにもその首自体が天草四郎本人の物かどうかは最終的に分からなかったという。一説には、幕府軍に捕えられた四郎の母は「今ごろ四郎は白鳥になって伴天連の国へ向かっているでしょう」とうそぶいたが、四郎の首を見せられると悲嘆して泣き崩れたともいう。