「ジェイコブ・ドルソン・コックス」の版間の差分
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[[南北戦争]]が勃発したとき、コックスは健康を害しており、また養うべき子供を6人抱えていた。だがコックスは連邦政府での活動に従事することを選択し、オハイオ州志願兵に参加した<ref>Ohio Historical Society.</ref>。まずコックスは兵士募集の任務を割り当てられた。コックスは[[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]近郊で兵士を募り、[[w:Department of the Ohio|オハイオ方面部]]でカノワ旅団を組織した。コックスの旅団はバージニア西部方面部に組み込まれ、[[ジョージ・マクレラン]]少将の下についた。コックスの旅団はでのカノワ川での初期の軍事作戦にあたり、戦闘で勝利を収めた。[[1862年]][[8月]]、コックスの旅団は[[ワシントンD.C.]]へ移り、[[ジョン・ポープ]]の[[バージニア軍]]に合流した。だが[[第二次ブルランの戦い]]ではバージニア軍の後方についたため、実際の戦闘には参加しなかった。[[メリーランド方面作戦]]が始まると、コックスの旅団は[[ポトマック軍]]の[[第9軍団]]に加わり、カノワ師団となった。
1862年[[9月]]、軍団を指揮する[[ジェシー・リー・リノ]]少将が[[サウス山の戦い|サウスマウンテンの戦い]]で戦死すると、コックスは第9軍団の指揮を引き継いだ。コックスは[[アンブローズ・バーンサイド]]少将に対し、第9軍団の正式な指揮官となってくれるよう正式依頼を行った。だがバーンサイド少将は既に2つの軍団の指揮を任されていたため、その依頼を断った。その一方、バーンサイド少将はコックスについて、コックスの軍事経験では軍団の指揮は荷が重過ぎると判断し、師団の指揮に戻るよう要求した。バーンサイド少将は、第9軍団の指揮を一時肩代わりした。コックスはバーンサイド少将の下につき、[[アンティータムの戦い]]を戦った。アンティータムでの戦いでは北軍が勝利を収めたが、バーンサイド少将の判断ミスにより「バーンサイドの橋」で大きな損害を残した。
アンティータムの戦い後の1862年[[10月6日]]、コックスは少将に昇進した。だが連邦上院は少将の数が多すぎると判断し、[[1863年]][[3月]]にコックスの昇進を取り消した。コックスはその後、[[1864年]][[12月7日]]に再び少将への昇進し、承認を受けた。コックスは1863年のほとんどをオハイオ方面部で平穏に過ごし、オハイオ軍管区とミシガン軍管区での指揮を担当した。
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