「旧川口居留地」の版間の差分

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[[画像:Osaka maritime museum04s3200.jpg|thumb|150px|明治時代の模型(岸壁、なにわの海の時空館)]]
==歴史==
[[江戸時代]]の[[安政五カ国条約]]によって大阪は、[[函館市|函館]]・[[新潟市|新潟]]・[[東京]]・[[横浜市|横浜]]・[[神戸市|神戸]]・[[長崎]]と共に開港または開市が決定されていた。それを引き伸ばし続けてきたがついに1868年、東京・神戸・新潟とともに開港・開市される。同時に外国人居留地と定められた川口町26区画の諸外国への競売が行われ完売し、直ちに街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備される。居留地に接する本田、富島、古川、梅本町も外国人雑居地となり、[[1886年]]には人気に応えて10区画の増設が行われた。又、木津川対岸にはドームを有する[[洋風建築]]の大阪府庁本庁舎([[1874年]]-[[1926年]])や大阪市役所([[1889年]]-[[1912年]])が建設される。[[1899年]]に居留地制度は廃止されるが、[[大正時代]]末まで周辺一帯は大阪の行政の中心であり大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェができ、様々な工業製品や嗜好品がここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴であった。
川口が貿易港として継続的発展をなしえなかったのは、河口港で水深が浅いため大型船舶が入港出来なかった事による。そのため、外国人貿易商は良港を有する神戸居留地へと移住していった。彼らに代わって[[キリスト教]]各派の[[宣教師]]が定住して[[教会堂]]を建てて布教を行い、その一環として病院、学校を設立し経営を行った。[[平安女学院]]、[[プール学院]]、[[大阪女学院]]、[[桃山学院]]、[[立教学院]]、[[信愛女学院]]といった[[ミッションスクール]]や[[聖バルナバ病院]]等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア([[天王寺区]]・[[阿倍野区]]など)へ次々と移転して川口は衰退への道を辿る事になる。対照的に大型外国船が集まるようになった[[神戸港]]は、[[1890年代]]には東洋最大の港へと拡大していった。
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*[[大阪市営バス]] 川口一丁目停留所 下車
**[[大阪駅]]から88号系統([[天保山]]行)もしくは88C号系統(川口一丁目行)で約18分
**[[淀屋橋駅]]から88号系統([[天保山]]行)もしくは88C号系統(川口一丁目行)で約12分
 
== 関連項目 ==