「キャロライン・コッシー」の版間の差分

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織賀 進 (会話 | 投稿記録)
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バリー・コッシーは[[イングランド]]・[[ノーフォーク]]の村ブルックで生まれ、男の子として育った。思春期に至っても、コッシーは[[クラインフェルター症候群]]として知られる症状のため、いくぶん女性的に見えた。この症候群では大多数が[[性染色体]]が通常の男性より[[X染色体]]が一つ多い「XXY」となっているが、コッシーは「XXXY」であった<ref name=Playboy>"The transformation of Tula. (transsexual Caroline Cossey)", by Gretchen Edgren, ''[[PLAYBOY]]'', September 1991, v38 n9 p102.</ref><ref name=mystory> ''My Story'' by Caroline Cossey. 1991. Faber and Faber. ISBN 978-0571162512</ref>。コッシーの自伝「My Story」には、自身の女性らしさのために混乱する感情と友人による[[いじめ]]に苦しんだ、不幸な幼年時代が綴られている<ref name=mystory/>。成長してからのコッシーの最も親しい友人は姉のパムであった。彼らは母親の服で着飾って遊んだ<ref name=Playboy/>。15歳の時コッシーは正規の学校教育をやめ、衣服店、肉屋の見習いとして働いた。16歳の時にコッシーはノーフォークから[[ロンドン]]へ移り住み、様々な低賃金の仕事をこなした<ref name=mystory/>。
 
ロンドンに移って間もなく、コッシーは性転換手術後の女性と友人になり、転機が訪れた<ref name=mystory/>。17歳の頃にはコッシーは女性ホルモン投与を開始し、常時女性として生活し、ロンドンのナイトクラブでショーガールの仕事を始めた<ref name=mystory/>。初めはショックを受けた彼女の両親も、最終的には彼女を支持した<ref name=Playboy/>。[[豊胸手術]]を受けた後、彼女は[[性別適合手術]] (SRS) の費用を捻出するため、[[パリ]]のショーガールとして、そして[[ローマ]]の[[上半身の性の問題|トップレス]]ダンサーとして働いた。長年の女性ホルモン投与及び精神的カウンセリング、そして法的に名前を変えた後、コッシーは1974年12月31日にロンドンのチャリング・クロス・ホスピタルでSRSを施した<ref name=Playboy/>。
 
==モデル業及びタブロイド紙の暴露==