「松倉勝家」の版間の差分

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乱の鎮圧後、勝家は悪政の責任を問われ、寛永15年([[1638年]])[[4月4日]]、[[寺沢堅高]]([[唐津藩|唐津藩主]])と共に[[改易]]。所領を没収され、[[4月12日]]には[[美作国]][[津山藩]]藩主[[森長継]]に預けられた。『嶋原一揆松倉記』によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に護送され、同年[[7月19日]]に江戸の森家下屋敷で斬首に処せられた。通常、大名が不名誉な斬首に処せられることはなかったので、いかに幕府が勝家の苛政を重罪として扱ったかがわかる(ただし切腹とも言われている)。松倉家は断絶し、[[高力忠房]]が[[遠江国]][[浜松藩]]より[[転封|移封]]されて島原藩を継いだ。
 
弟の重利の系統は300俵の旗本として存続した。
 
{{先代次代|[[島原藩|松倉氏(島原藩2代)藩主]]|1630 - 1638|[[松倉重政]]|[[高力忠房]]}}