「ガッリエヌス」の版間の差分

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[[253年]]に父のウァレリアヌスと共に共同皇帝として即位し、ウァレリアヌスは帝国東部の戦線を、ガリエヌスは帝国西部の戦線を担当することになった。
 
[[256年]]、ペルシア([[サーサーン朝]])皇帝[[シャープール1世]]が、ローマ帝国領[[カッパドキア]]に侵攻。ウァレリアヌス率いるローマ軍は、[[259年]]に[[シリア属州]]の[[アンティオキア]]に到着する。ここを前線基地として、ペルシアとの戦いが開始された。ところが、父である皇帝[[ウァレリアヌス]]が[[260年]]に[[シャンルウルファ|エデッサの戦い]]に敗れて[[ペルシア]]に捕らえられたことにより、共同皇帝から単独皇帝に登位。ローマ皇帝捕囚のニュースはローマ帝国の権威を失墜させ、[[ガリマルクス・カッシ帝国]]が出現してしまう。しかし、当時通商都市の一つであった[[パルミヌス・]]の実力者・[[セプティウス・オデナポストゥス]]が、軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけ、ペルシア軍を敗走させた。これを機会よる[[ガリエヌスは、オデナトゥスと同盟を結び、オデナトゥスに東方属州の防衛を一任ア帝国]]が出現した。
 
東方属州でもフルウィウス・マクリアヌス([[:en:Macrianus Major|en]])らが皇帝を僭称した。一方、ガリエヌスは当時通商都市の一つであった[[パルミラ]]の実力者・[[セプティミウス・オダエナトゥス]]と結び、オダエナトゥスは軍隊を率いてペルシア軍の宿営地、アンティオキアに夜襲をかけてペルシア軍を敗走させ、[[エメサ]]で皇帝を僭称していた[[ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス]]を討ち果たした。
しかし、帝国の権威失墜により[[ゴート族]]をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オデナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥のマエオニウス(Maeonius)との諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。[[オデナトゥス]]の妻・[[ゼノビア]]がマエオニウスを処刑し、当時1歳の息子[[ウァバラトゥス]]を後継者に据えてパルミラの実権を握ると、ゼノビアは今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、[[ガリア帝国]]・[[パルミラ王国]]による帝国三分割を許してしまう。
 
しかし、帝国の権威失墜により[[ゴート族]]をはじめとする蛮族による帝国進入も激しくなる。また、オダエナトゥスはローマのために、さらに小アジアのゴート族を討伐に出かけてそれに成功して帰還したが、甥の[[マエオニウス]](Maeonius)との諍いから、宴会の最中、彼に暗殺されてしまった。[[ダエナトゥス]]の妻・[[ゼノビア]]がマエオニウスを処刑し、当時1歳幼少の息子[[ウァバラトゥス]]を後継者に据えてパルミラの実権を握ると、ゼノビアは今までのパルミラの方針を転換し、公然とローマに反旗を翻した。こうしてローマ帝国は、[[ガリア帝国]]・[[パルミラ王国]]による帝国三分割を許してしまう。
 
この事態に、皇帝ガリエヌスは精力的に蛮族撃退に繰り出すが、ガリア帝国・パルミラは現状のまま放置することになった。蛮族対策のために騎兵部隊を軍の主力とし、ローマ軍、ひいてはローマ市民層の変質をもたらした。ポストゥムスら皇帝を僭称する者達も相次ぎ、ローマ帝国の歴史においても屈指の国難の中、奮闘に奮闘を重ねたが結果が伴わず、[[クラウディウス・ゴティクス]]らのクーデターにより殺害された。
ガリエヌスは当時の国難に対処するための下記のような対処を重ねたが、結果、危機はますます深刻化した。
 
その1つが[[ライン川]]と[[ドナウ川]]防衛線を繋げていた[[リーメス]]・ゲルマニクス(ゲルマニア防壁)の放棄である。当時防壁内に入り込んでいた[[アレマン族]]にその内部での居住を許し、その防衛を請け負わせようとした。そのために居住内建設資金という名目で、年貢金を支払うことまで受け入れた。当初は蛮族の侵入を阻止出来たものの、防壁の喪失はのちの時代に深く影響することになる。
 
また1つに、軍人と文官のキャリアを分離したことがある。元老院階級を筆頭とするエリート層に武官と文官との両方を経験させることで、総合的な視野と能力を有する人材を育成するというローマの伝統を失わせる結果となった。
 
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[[Category:古代ローマ人]]
[[Category:ローマ皇帝]]
[[Category:軍人皇帝時代]]
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