「辛酉政変」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1861年]]8月、[[咸豊帝]]は[[承徳市|熱河]]の[[行宮]]で病死した。咸豊帝は死の前に御前大臣の[[愛新覚羅載垣|怡親王載垣]]、[[愛新覚羅端華|鄭親王端華]]、[[協弁大学士]]・戸部尚書[[粛順]]、額駙[[景寿]]、[[軍機大臣]]の兵部尚書[[穆蔭]]、吏部左侍郎[[匡源]]、礼部右侍郎[[杜翰]]、太僕寺少卿[[焦祐瀛]]の8名に対し「賛襄政務王大臣」として、皇太子[[同治帝|載淳]]を補佐せよとの遺詔を残した。これは載淳の生母の西太后、恭親王奕訢、顧命大臣[[センゲリンチン]](僧格林沁)、軍機大臣[[文祥]]らを権力から排除するものであり、不満をまきおこした。こうして西太后は[[東太后]]と結び八大臣との権力闘争を始めた。9月14日、御史の[[董元醇]]は皇太后の[[垂簾聴政]]と近親の親王の補佐を求める上奏を行ったが、八大臣は今まで清朝にそのような例はなかったとして反対した。奕訢は[[北京市|北京]]で拉攏大学士[[桂良]]、[[賈禎]]、[[周祖培]]、戸部尚書[[沈兆霖]]、刑部尚書[[趙光]]、さらには北京周辺の兵権を握る[[欽差大臣]]・兵部侍郎[[勝保]]とセンゲリンチンの支持を取り付けた。10月26日、咸豊帝の棺が熱河から北京に運ばれたが、西太后は粛順に棺を護送させて、自分と東太后と載淳は先に北京に入った。北京に入ると即座に奕訢とクーデターを起こして、11月2日に載垣と端華を逮捕し、[[愛新覚羅奕ケン|醇親王奕譞]]を派遣して[[密雲県]]で粛順を捕縛した。11月3日、奕訢を議政王とし、桂良ら5人を軍機大臣とした。11月8日、詔を下して載垣と端華に自害を命じ、粛順を斬首し、その他の5名を免職とした。11月11日、載淳が皇帝に即位した。八大臣が決定した年号の「[[祺祥]]」を取り消し、「[[同治]]」の年号が採用された。こうして西太后と奕訢が清朝の実権を握ることとなった。
 
== 関連項目 ==