「肥後亨」の版間の差分

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幼少時から政治に強い関心を示し、[[鳩山一郎]]の[[書生]]を経て[[院外団]]活動に身を投じる。[[被選挙権]]を得るや、各地の首長選・[[衆議院議員選挙]]・[[参議院議員選挙]]・[[東京都議会]]議員選挙と、選挙の種類を選ばずゲリラ的かつ[[愉快犯]]的に出馬を重ねるようになった。
 
[[ナチス]]を摸した<ref>尊敬する政治家として必ず[[アドルフ・ヒトラー]]を挙げている</ref>「[[国家社会主義日本労働者党]]」を筆頭に、「[[反米遊撃隊]]」、「[[反共全国遊説隊]]」、「創価学会」<ref>宗教団体[[創価学会]]とは無関係</ref>、「[[「民主社会党」<ref>後の[[民社党]]とは無関係</ref>、「[[国際情報機構東京第101特務機関]]」、「[[国際共産機構東京第101特務機関]]」、「[[国際共産機関]]」、「[[国際共産主義者同盟]]」、「[[日本人民共和国]]」<ref>届出上の政治団体。[[主席]]を名乗り'''都庁に赤旗を掲げよう'''と宣伝して廻った。ちなみに当時の自民党は'''都庁に赤旗を揚げるな'''と対立する[[日本社会党#日本社会党 (1945-1996)|日本社会党]]などを攻撃していた</ref>、「[[肥後産業株式会社]]」など、その都度人を喰った団体名を語り、主として[[日本社会党#日本社会党 (1945-1996)|社会党]]ほか[[革新]]陣営に対する中傷誹謗、選挙妨害、減票工作に終始した。過剰なまでの当て擦りの動機には、[[敗戦]]で捌け口を失った屈折した[[国粋主義]]と、[[反共]]思想があったとされる。また[[1958年]]の[[第28回衆議院議員総選挙]]では、[[自由民主党]]の公認漏れ候補者が烏合集結した「[[革新自由民主党]]」の選挙対策副委員長にも就任している。
 
[[国政選挙]]に際しては、肥後と徒党を組むアングラ人脈([[三沢美照]]、[[風間日光]]、[[小山寿夫|小山寿夫(壽夫)]]、[[門馬竜一]]、[[小林初三]]、[[粕谷敬造]]ら)や、肥後が経営に関与する会社の従業員を大量に擁立して、[[確認団体]]の体裁を整えた事もあった。然しながら代表の肥後以外は[[選挙演説|立会演説会]]にも出席せず、無届で勝手に代理弁士(その多くは'''[[高田がん]]'''であった)を立てたり、[[選挙運動#ポスターの掲示|選挙ポスター]]には候補者名よりも肥後の名前を大書するなど、異常な選挙運動を展開したため、「何の為の立候補か」といぶかしがられた。時として肥後本人も、投票日直前に立候補取下を繰り返す奇怪な行動を見せた。(多少、病弱気味ではあったようである)