「汎テュルク主義」の版間の差分

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一方、[[オスマン帝国]]では、[[1908年]]の[[青年トルコ人革命]]により、[[スルタン]]・[[アブデュルハミト2世]]が失脚した。[[アブデュルハミト2世]]は、[[カリフ]]としての宗教的権威を強調することで、[[オスマン帝国]]の対外的な威信を維持しようとしていたが、[[スルタン]]の失脚により、[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]の統一性よりも[[テュルク]]人としての民族意識を強調する言論が盛んに唱えられるようになる。また、[[タタール人]]の[[ユースフ・アクチュラ]]をはじめとする民族主義者が[[ロシア帝国]]から数多く亡命し、[[テュルク]]系諸民族の一体性を訴える汎テュルク主義は、[[第二次立憲制]]期の[[オスマン帝国]]において、大きな思想潮流となった。
 
[[第二次立憲制]]期に陸軍大臣を務めた[[エンヴェル・パシャ]]は、[[第1次世界大戦]]での敗北後、ソ連の意向を受けて[[アナトリア]]で[[テュルク]]系諸民族の統一を画策したのに失敗し、[[トルキスタン]]で[[中央アジア]]の反ソ運動である[[バスマチ運動]]に参加し、[[トルキスタン]]の[[テュルク]]系諸民族の統一を画策したが、その背景には、こうした[[第二次立憲制]]期の知的風土があった。
 
しかし、[[1923年]]の[[ローザンヌ条約]]により、トルコの領土が[[アナトリア]]を中心とした領域に限定されると、[[希土戦争 (1919年-1922年)|トルコ独立戦争]]によって成立した[[ムスタファ・ケマル]]体制は、[[アナトリア]]という地理的な枠組みを前提とした[[トルコ民族主義]]を強調するようになり、[[ローザンヌ条約|ローザンヌ体制]]から逸脱する汎テュルク主義は一転して弾圧の対象となった。
 
1920-30年代の[[トルコ]]では、[[トルコ語]]から[[外来語]]を排除し、古来の「本来のトルコ語」を復活させようとする[[トルコの言語純化運動|言語純化運動]]が精力的に進められた。[[1932年]]には[[トルコ言語学協会]]が、[[1935年]]には[[トルコ歴史学協会]]が設立され、[[言語学]]や[[考古学]]の観点から、公的な[[トルコ民族主義]]の制定が急速に進められた。こうした中で、世界の諸言語の起源を[[中央アジア]]に求め、[[トルコ語]]をその純粋な後継言語と位置づける「[[大日トルコ語論|太陽言語説]]」のような政治神話が流布することもあったが、現実の[[トルコ]]国外の[[テュルク]]系民族に政治的な影響を及ぼそうとする動きは見られなかった。
 
一方で、[[ロシア革命]]後の[[ソビエト連邦|ソ連]]においても、汎テュルク主義はエンヴェルの[[1921年]]の転向により弾圧の対象となった。[[1921]]の[[ソ連共産党|ロシア共産党]]第10回党大会では、「党は[[ブルジョワ民族主義]]的傾向をもつ汎テュルク主義を批判する」というドクトリンが制定され、「汎テュルク主義」は、ソ連で政治犯が告発される際の政治的罪状の1つとなった。1930年代には、[[ミールサイト・スルタンガリエフ]]をはじめとする多くの[[テュルク]]系民族エリートの幹部が、「汎テュルク主義者」の罪状で粛清された。
 
[[第二次世界大戦]]中には、[[ドイツ]]が[[ソビエト連邦|ソ連]]領内の[[テュルク]]系民族の離反を狙って、汎テュルク主義の宣伝工作を行ったが、さしたる成果を挙げることは無かった。