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[[江戸]][[小石川]]の生まれ。10歳のときに父が急逝する。[[天保]]13年([[1842年]])に[[徒目付]]となる。[[嘉永]]6年([[1853年]])に[[評定所]]配属となり、[[安政]]元年([[1854年]])に留役助、翌年には留役になった。安政5年([[1858年]])8月に外国奉行支配組頭となり100俵を給され、[[神奈川宿|神奈川]]開港問題の交渉にあたって、[[横浜港|横浜]]開港を実現させた。その後も外国人殺傷問題や通貨問題などで欧米外交団との交渉の窓口となり、[[文久]]元年([[1861年]])には100俵の加増を受ける。
 
文久2年([[1862年]])に幕府遣欧使節組頭としてヨーロッパに渡り、開港開市の延期交渉にあたる。同年暮に帰国後直ちに外国奉行並に任じられ、翌年11月に外国奉行として[[箱館]]派遣が決定され、翌月には諸大夫に任じられた。[[慶応]]元年([[1865年]])閏5月に製鉄所建設及び軍制調査の正使として[[フランス]]・[[イギリス]]に派遣される。7月にフランスに入った柴田らはフランスとの製鉄所建設と軍事教練に必要な協定を締結することに成功するが、[[薩摩藩]]との関係を強めつつあったイギリスとの交渉には成功しなかった。11月にフランスを出発し、翌年1月に帰国する。慶応3年([[1867年]])5月13日には[[大坂町奉行]]、7月9日には[[兵庫奉行]]と兼務してもっぱら[[外国人居留地]]問題などの外交問題を担当した。慶応4年(明治元年/[[1868年]])の[[鳥羽伏見の戦い]]での幕府軍の敗北と[[徳川慶喜]]の[[江戸城]]引揚に際して[[運上所]]施設の明け渡しなど対外的な事後処理を終えた後の1月17日に外国奉行以下を罷免され、隠居願を提出、同年4月に認められて所領のある[[上総国]][[山辺郡 (上総国)|山辺郡]]に退いた。その後もその見識と人物を評価されて[[明治政府]]より出仕要請が出されるが、これを辞退する。ただし、政府に請われて上京して外交問題に関する諮問に応じたという。
 
== 参考文献 ==