「広安門事件」の版間の差分

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'''広安門事件'''(こうあんもんじけん)は、[[支那事変]]([[日中戦争]]初期の{{和暦|1937}}7月26日、[[中華民国]]の[[北京市|北平]]で起きた[[中華民国軍|中国軍]]による[[日本軍]]への襲撃事件。
 
==概要==
北平居留民保護の為に日本軍は中国軍の解を得た上で北平に向っていた。午後4時、日本軍は広安門([[:zh:廣安門]])に着いたが、25日の[[郎坊事件]]などにより中国側の態度は硬化しており、[[秦徳純]]の命令により門は閉ざされていた。折衝の上、午後7時に開門したが、先頭のトラック三両が通過したとき{{要出典}}、これに気づいた中国兵が城壁上から発砲をしはじめ日本軍は分断され戦闘状態となった。
 
当時、既に中国軍は[[河北省]]南部の[[石家荘市|石家荘]]・[[保定市|保定]]や[[山西省]]の[[大同市|大同]]に多数集結し、また[[豊台区|豊台]]においては完全に日本軍を包囲しており、その一方で日本軍も新たに動員された[[関東軍]]・[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]の部隊が北平・[[天津市|天津]]地区に到着しつつあり、両軍の間で緊迫の度が高まる中で起きた事件であった。この事件は、坊事件とともに[[日中戦争]]が本格化北支に於いて事態を左右する重要な契機大事となった。
 
==関連事項==