「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ」の版間の差分

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== 宰相への道 ==
セバスティアン・デ・カルヴァーリョ・イ・メロは[[リスボン]]の小貴族マヌエル・デ・カルヴァーリョ・イ・アタイデの息子として生まれた。[[コインブラ大学]]に学び、しばらく軍に勤務した後、リスボンに戻り、アルコス・セバスティアン伯爵の姪であるテレサ・デ・メンドーサ・イ・アルマダと結婚した。しかし、妻の実家は身分違いだと反対しており、何かと差し障りが多かったので、[[ポンバル]]近くの領地に引きこもった。[[1738年]]に[[ロンドン]]駐在ポルトガル大使に任命され、[[1745年]]からは[[ウィーン]]駐在ポルトガル大使に移った。ポルトガル王妃[[マリア・アンナ・ヨーゼファ|マリア・アナ]]は[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]・[[ハプスブルク家]]の出身で、カルバーリョを何かと目に掛け、彼の最初の妻が亡くなると、オーストリア元帥[[レオポルト・フォン・ダウン|ダウン伯爵]]の娘と結婚させた。しかし、国王[[ジョアン5世 (ポルトガル王)|ジョアン5世]]は彼を嫌い、[[1749年]]にウィーンから召喚した。翌1750年、ジョアン5世が死去すると、新王[[ジョゼ1世 (ポルトガル王)|ジョゼ1世]]はカルヴァーリョを好み、王太后の了解を得て外務大臣に任命した。やがて王はカルヴァーリョを全面的に信頼するようになり、国政を委ねていった。
 
== 啓蒙主義 ==