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31歳の時、僅かな金(20銭)を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。
 
やがて力自慢でならしていた米太郎に[[稲川部屋]]から声がかかり、[[両国大相撲]]に行き[[力士]]となってる。'''鷲尾獄'''の[[四股名]]でフンドシかつぎから[[幕下]]筆頭にまでったがるものの、手の指に障害を負っていたためことが原因で[[幕内]]に上る事を断念。酒屋に転身するが、現金取引を優先したことで利益を上げ国技館一手扱いの酒屋となった当時、米太郎は結婚し、更に儲かる仕事を求めて、田舎から上京した弟の竹次郎とともに鉄鋼圧延用のロールを作る町工場東京ロール製作所経営するようになった起業以降、米太郎は弟の竹次郎を呼び寄せ、実弟と二人三脚の事業展開を行なう事になる。
 
[[1923年]][[9月1日]][[関東大震災]]が発生し、では米太郎の工場は焼けて跡形無くなった。そこで米太郎全焼の被害を被るが、今度は震災復興を行なに伴土建事業や鉄鋼事業需要に注目。大谷製鋼所を設立、建築関係の鉄鋼製品の製造で利益を挙げた。更に材料の特殊鋼製造にも着手し、[[1939年]]に大谷製鉄を設立。翌年には大谷製鉄・東京ロール製作所・大谷製鋼所が合併し、[[大谷重工業]]を起業、その第一歩を踏んだとなった戦前は加えて[[満州]]にまで進出し、事業拡大を図り、当時の「鉄鋼王」とまで呼ばれた。しかし[[太平洋戦争]]の敗戦によって再び全てを失った。
 
ところが、戦後になり[[朝鮮特需]]の勢いに乗って米太郎の大谷重工業は息を吹き返し、巨万の富を築いた。
その後の米太郎は経営不振に陥った会社を再建する事業を行ない[[星製薬]]などの企業を再建させ、[[蔵前国技館]]の建設に協力するなどの慈善事業を行なうようになった。
 
[[1964年]]、[[東京オリンピック]]の開催が決まり、東京の宿泊地不足に対して米太郎は[[ホテルニューオータニ]]を建設。ホテルは開業したものの、直後に大谷重工業の経営不振が露呈。開業の翌年には社長の座を追われ、大谷重工業も[[八幡製鉄]]が経営支援に乗り出して実権を失う。[[脳腫瘍]]で死去、享年86。
 
[[浮世絵]]のコレクターでも知られ、彼のコレクションは[[ニューオータニ美術館]]で見ることが出来る。
 
[[太平洋戦争]]では満州地域での事業を失うなど損害を受けたものの、[[朝鮮特需]]で大谷重工業にも活気が戻る。余勢を買って[[星製薬]](同社の本社工場が[[)を傘下に収めてしまうなど、企業の買収や再建にまで手を広げた。[[1964年]]、[[東京オリンピック]]の開催が決まり、東京の宿泊地不足に対して米太郎は[[ホテルニューオータニ]]を建設。ホテルは開業したものの、直後に大谷重工業の経営不振が露呈。開業の翌年には社長の座を追われ、大谷重工業も[[八幡製鉄]]が経営支援に乗り出して実権を失う。[[脳腫瘍]]で死去、享年86。
==エピソード==
*米太郎が大谷製鉄を設立した際には戦時統制の絡みから当局の認可が必要だったが、米太郎自身は銀行取引ばかりか[[銀行口座|口座]]すら持っていなかったので、そのため信用調査に苦労した上でやっと認可した経緯がある。
*[[蔵前国技館]]の建設にあたっては、米太郎が勧進元となり完成にこぎつけた。また[[浅草寺]]宝蔵門も、[[1964年]]に米太郎の寄進によって再建されたものである。
*[[浮世絵]]のコレクターでも知られ、彼のコレクションは[[ニューオータニ美術館]]で見ることが出来る。
==関連項目==
*[[ホテルニューオータニ]]
*[[富山県立大学]](元富山県立大谷技術短期大学)
*[[浅草寺]]
 
[[Category:日本の実業家|おおたによねたろう]]