「清原和博」の版間の差分

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羅候 (会話 | 投稿記録)
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[[2002年]]も開幕から好調であったが、故障のため戦線離脱。シーズン終盤には復帰し55試合出場に終わるが、.314、12本塁打と一定の成績は残した。故障を押して出場した[[2002年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[松坂大輔]]から本塁打を放っている。また[[8月23日]]には長男が誕生した。
 
[[2003年]]は松井移籍数日後に[[原辰徳]]監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率.290、26本塁打を記録している。[[7月5日]][[中日ドラゴンズ]]戦で通算2000本安打達成したPLの2年後輩[[立浪和義]]を祝福。しかしシーズン後半には[[ロベルト・ペタジーニ|ペタジーニ]]が4番を打つことが多くなり、(ペタジーニも規定打席不足ではあるが)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。
 
[[2004年]]はペタジーニとの併用で出場試合数が減少。史上31人目、巨人の選手では落合博満以来6人目の2000本安打を達成するが、成績は.228、12本塁打と低迷。同年シーズン終了後、監督の[[堀内恒夫]]の戦力構想から外れたことが判明。退団の危機に陥ったが、オーナーに直談判、堀内監督にも残留を哀訴し、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。