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1941年5月22日、[[岡山県]][[上道郡]]財田村長岡(現・[[岡山市]]長岡)に[[江田三郎]]、光子の長男として生まれる。
 
[[岡山市立旭中学校]](現・[[岡山市立岡山中央中学校]])、[[岡山県立岡山朝日高等学校|県立岡山朝日高校]]卒業後、[[東京大学]][[文科一類]]、[[早稲田大学]][[政治経済学部]]に合格。東大へ進む。[[教養学部]]自治会委員長時代に大学管理制度改革に反発し、他の学部とともに全学ストを実行する。江田はこのストを指揮したため、責任を取る形で退学処分となる<ref>このとき、全学の自治会中央委員会議長として全体の指揮を執り、ともに退学処分となったのが、後年民主党で同僚議員ともなった[[今井澄]]である。</ref>1年後、学生運動と絶縁し、東大に復学。一転学業に精を出した。政治学科で[[丸山真男]]の薫陶を受け、[[吉野作造]]の研究に従事していたが、在学中の[[1965年]]に[[旧司法試験|司法試験]]に一発合格(10番の席次)。[[横路孝弘]]、[[高村正彦]]、[[神崎武法]]らと同期だった[[司法修習]]を終える。当初は[[検察官]]志望であったが、野党幹部の子息であることや学生運動経験などを理由に敬遠され、[[裁判官]]志望に変更。[[1968年]]に[[東京地方裁判所|東京]]、[[千葉地方裁判所|千葉]]、[[横浜地方裁判所|横浜]]各[[地方裁判所]]で判事補を務めた。[[オックスフォード大学]]に留学し、裁判官としてキャリアを積んでいくことを目指したが、父の急逝で後継候補として担がれることとなった。
 
=== 社民連代表 - 新進党時代 ===