「セミナリヨ」の版間の差分

 
== 歴史的経緯 ==
[[1579年]]、[[イエズス会]]の巡察師[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]神父は日本における布教の状況を視察すべく来日した当時、日本対すおけ偏見が強かった布教の責任者であった[[フランシスコ・カブラル]]神父は、日本人に対する偏見強く、日本人司祭・修道士の育成を禁止し、まったく行っていないことかった。その状況に驚いたヴァリニャーノは、すぐさまこれを改善するよう命令した。ヴァリニャーノにとっては、日本人の司祭・修道士を育成することが日本布教の成功の鍵を握るとみていた。
 
こうして作られた教育機関がセミナリヨ(初等教育)とコレジオ(高等教育)、およびノビチアート(イエズス会員養成)であった。
 
セミナリヨを設置するため場所選びが始まった。京都に建てることも考えたが、京都では仏教僧などの反対者も多く安全性が危ぶまれた。そこで[[織田信長]]に願いの元を訪れ、新都市安土(現・[[滋賀県]][[蒲生郡]][[安土町]])に土地を願った。すぐさま城の隣のよい土地が与えられ、信長のお墨付きを得たことで、安全も保障された。信長の協力が得られた理由は、信長は仏教僧達を心よく思っていなかったため、対抗手段としてキリスト教を保護していたからである。こうして[[1580年]]に完成したのが安土のセミナリヨであった。同じ時期九州地区でも長崎の有馬(現・[[長崎県]][[南島原市]])に同じようにセミナリヨがつくられた。
 
安土のセミナリヨは純和風建築三階建てで、客をもてなすための茶室が付属していた。信長は屋根の瓦に安土城と同じ青い瓦を使うよう命じ、イエズス会員たちはこれに感謝した。責任者となった[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ]]神父は入学者をあつめるため、[[高山右近]]に依頼。彼はキリシタンである家臣の子弟8人を安土に送った。オルガンティノ神父が彼らにセミナリヨの目的について説明し希望者を募ると彼らはそれにえて入学を願った。その中には後に長崎で殉教する[[パウロ三木]]や[[元和の大殉教]]で死んだ[[アントニオ三箇]]がいた。
 
安土では30人ほどの学生が住み込みで学んでいたが、[[本能寺の変]]の後で[[安土城]]と市街が焼けると、脱出せざるをえなくなった。その後、[[高槻]]に移転したが、[[1587年]]の[[豊臣秀吉]]の禁教令によって九州移転を余儀なくされた。セミナリヨは[[長崎]]、[[有馬]]、[[加津佐町|加津佐]]、[[天草]]などを転々としたが、[[1614年]]の[[徳川家康]]の禁教令によって閉鎖された。生徒たちのあるものは潜伏し、あるものは勉学を続けるため[[マカオ]]や[[マニラ]]逃れた。
 
セミナリヨで学び、後にイエズス会員となった多くののも厳しい迫害の中で殉教や国外追放という運命をたど辿った。
 
== 教育内容 ==
1,499

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