「恵文王 (趙)」の版間の差分

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俊武 (会話 | 投稿記録)
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その後も恵文王は政務を執り続けるが、稀代の戦争上手である主父の時代と比べればその軍事力には衰えが見られ、主父の時代には有利な政略を取り続けていた[[秦]]に対して不利な情勢に陥る。
 
ある時、秦から恵文王が持っていた類まれな[[璧]](宝石の一種)を「十五城と交換したい」と言ってきた。しかし秦を信用して果たして約束が守られるかどうか。恵文王は悩んだが、そこに[[藺相如]]が名乗りを挙げて秦に赴き、やはり約束を守る気の無かった秦から壁を無事持ち帰った。(「完璧」)
 
また[[279年]]には秦からの招きを受けて恵文王が秦に行った時に藺相如は同行した。この時に秦の[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]は恵文王に対して瑟(しつ、弦楽器の一種)を無理やり弾かせ、その事を国史に記述した。王に対して楽士の真似事をさせるとはと怒った藺相如は昭襄王に缻(素焼きの器、歌を謡うときにこれを叩く)を差し出してこれを叩いてくれと迫った。昭襄王は当然これを断ったが、「断るならばここであなたを刺す。」と言い、昭襄王が一回だけ缻を叩いたので、そのことを国史に記述させた。(「澠池の会」)
 
その後も基本的に秦に従って[[斉 (春秋)|斉]]などを攻めていたが、斉から送られてきた[[蘇厲]]([[蘇秦]]の弟)の言に従って秦に背くようになる。