「鳥海山大物忌神社」の版間の差分

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===夷征と大物忌神===
[[越国]]より始められた夷征は、[[慶雲]]から[[和銅]]の頃に[[庄内地方|庄内]]以北の着手に至ったが、当時この地方は原生林に覆われ、また南方を追われた[[蝦夷]]が群居し、常に噴煙を吐く鳥海山が時々大爆発する状況は夷征に着手した朝廷軍にとって戦慄すべきものであった。日本において[[山岳信仰]]は盛んであったが、前述の状況から、朝廷は鳥海山の爆発が夷乱と相関していると疑うに至ったのではないかと『名勝鳥海山』<ref name="choukai">安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会</ref>では推している。
 
[[日本三代実録]]の[[貞観 (日本)|貞観]]13年([[871年]])の条に、以下の記述がある。 《4月に噴火があり多大な被害と多数の死者が出たことが[[出羽国|出羽]][[国司]]より報告され、報告を受けた朝廷が[[陰陽寮]]にて占いを行ったところ、[[弘仁]]年間の鳥海山噴火後まもなく戦乱があったのは国守が凶変ある毎に祈祷したが後の報祭を怠ったため大物忌神がお怒りになったためと結果が出た。よって鎮謝報祭が行われなければ戦乱が起こるので奉賽を行うと共に神田を汚している家墓骸骨を除去せよと国守に命じた。》 この記述は[[鳥海山]]噴火が兵乱の前兆であると信じられていたことを覗わせている。
===出羽国一宮===
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])には[[延喜式神名帳]]により式内社、[[名神大社|名神大]]とされた。また、同式の『主税式』においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、
当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは[[陸奥国]][[鹽竈神社]]、[[伊豆国]][[三嶋大社|三島社]]、[[淡路国]]大和大国魂社と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことがえる。
 
[[出羽国]][[一宮]]とされ、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[正平 (日本)|正平]]13年([[北朝 (日本)|北朝]]の元号では[[延文]]3年、[[1358年]])、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[陸奥守]]兼[[鎮守府将軍]]である[[北畠顕信]]が南朝復興と出羽国静謐を祈願した寄進書<ref>吹浦口之宮 所蔵 ([[重要文化財|国重要文化財]])</ref>に出羽国一宮の記述が見える。これが文献上における一宮名号の見であるとされる。
 
===一宮争い===
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