「三刀屋氏」の版間の差分

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この頃の中国地方の覇者は[[大内氏]]であった。[[永正]]4年([[1507年]])に前将軍[[足利義稙|足利義尹]]を奉じた[[大内義興]]の上洛軍に、尼子氏ともども三刀屋氏も従ったが、泥沼の戦いを続ける京の戦乱よりいち早く帰国した尼子経久は義興不在の大内領への侵略を開始、大内氏との全面的な対立が始まった。[[三刀屋頼扶|頼扶]]は、尼子経久に従って[[石見国]]・[[安芸国]]を転戦し、多くの軍功を挙げた。この頼扶の嫡男が[[三刀屋久扶|久扶]](久祐)である。
 
[[天文 (日本)|天文]]9年([[1540年]])、[[安芸国]]で勢力を拡大していた[[毛利元就]]を征伐するため尼子氏は軍を起こした。この[[吉田郡山城の戦い]]では久扶も尼子方の武将として参加したが、散々の敗北を喫し、出雲へと逃げ帰った。その後三刀屋氏は大内氏に降るが、[[月山富田城の戦い]]以降、再度尼子氏に従った。[[尼子晴久]]に従って、大内氏の所領を受け継いだ毛利氏と度々戦ったが、[[尼子義久]]の時代になると、久扶は[[三沢為清]]とともに毛利氏に降った。[[永禄]]5年([[1562年]])に毛利氏が出雲への侵攻を開始すると、[[三刀屋城]]は[[山陰]]と[[山陽]]を結ぶ要地であったため、毛利軍の兵站の拠点となった。そのため尼子氏の攻撃を受けたが、[[宍戸隆家]]や[[山内隆通]]の援軍を得て尼子軍を撃退した。翌永禄6年([[1563年]])にも、尼子方は[[宇山久兼]]・[[牛尾幸清]]・[[立原久綱]]らに三刀屋城を攻撃させたが、退けている。そして永禄8年([[1565年]])の尼子氏の本城である[[月山富田城]]の攻撃にも[[小早川隆景]]軍に従って菅谷口の攻略を担当した。
 
尼子氏滅亡後、出雲国では[[山中幸盛]]らによる尼子再興軍の活動が活発化した。久扶は再興軍に参加することなく、[[吉川元春]]に起請文を提出して異心無きことを示した。[[天正]]元年([[1573年]])には[[天台座主]]補任問題にも関わり、[[正親町天皇]]より毛氈鞍覆弓袋などの使用許可を受けている。