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『黒田長興一世之記』によれば寛永14年([[1637年]])10月、口の津村の庄屋与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。庄屋宅では人々が何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう納めるものは何もなかった。庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した。[[10月25日]]、耐えかねた領民はついに蜂起し、代官を殺害した。これが[[島原の乱]]の始まりである。
乱の鎮圧後、勝家は悪政の責任を問われ、寛永15年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]([[1638年]]
弟の重利の系統は300俵の旗本として存続した。
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