「海軍砲術学校」の版間の差分

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また、砲術学校卒業後に教官を務める者も続出した。中には[[安東昌喬]]中将や[[山本五十六]][[元帥 (日本)|元帥]]、[[加来止男]]少将のように、偵察・観測・爆撃の効果を買って[[航空機]]に転出した教官や、[[相馬信四郎]]少将や[[波多野貞夫]]中将のように[[火薬]]製造術を研究する技官となった教官もいる。[[日華事変]]や[[太平洋戦争]]では陸戦も頻繁に行われ、沖縄を防衛した[[大田実]]中将や中国大陸各地で陸戦隊を統率した[[宮田義一]]中将などの陸戦のエキスパートも学生・教官として砲術学校に学んだ。
 
[[1941年]]に館山砲術学校(以下館砲)が併設されたが、館山校では陸戦隊の操練術を主とし、対空砲の操作術も習得させた。一方、従来の横須賀校では、艦載兵装の操作術を担当した。また、軍機だったため、一般には知られていないが、館砲では、[[細菌]]などの[[生物兵器]]や[[毒ガス]]などの[[化学兵器]]に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関だった。教育対象者は、主に[[薬学]]や[[歯学]]、[[理工]]系から来た[[学生]]達で、化学兵器では全国から極秘で集められた約150名によって特殊部隊が編成され、実際に細菌戦などの実践訓練を[[平砂浦]]海岸で行われていたという。証言者の話によるとある薄暗い早朝に平砂浦海岸で、[[防毒服]]や[[マスク]]、手足のつけねまである[[手袋]]と[[長靴]]を履いた完全防護も元訓練が行われ、海岸沿いにさらし粉と得体の知れない液体を順次撒いたという。教官達の話によると「[[敵]]が上陸する前にまけば、一週間は(菌が)生きていて、それが口から入れば猛烈な[[下痢]]を起こす」と説明したとされる。
 
ちなみに、1944年8月21日から翌年5月27日まで、[[高松宮宣仁親王]]が横須賀校の教頭を務めている。