「劉永 (蜀漢)」の版間の差分

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{{otheruses|三国時代の蜀漢の皇族|新末後漢初期の群雄の1人|劉永 (梁)|}}
'''劉永'''(りゅうえい、生没年不詳)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]][[蜀漢]]の[[皇族]]、[[字]]は'''公寿'''[[家系]]は[[劉]]。母は不明。[[劉備]]の子は公寿。[[劉禅]]の異母弟。甘陵王
 
== 生涯 ==
父が皇帝に即位すると、魯王に封建された。後に、兄によって甘陵王に改封された。[[黄皓]]の讒言を信じた劉禅によって彼は朝廷への参内を許されない立場に追い込まれてしまったという。
劉禅の異母弟であり、[[221年]]、父が皇帝に即位すると、魯王に封じられ、[[230年]]、劉禅によって甘陵王に改封された。
[[246年]]、[[董允]]が死去し[[黄皓]]が政治に関与しはじめると、お互いに反目しあっていた劉永と黄皓はさらに対立し、黄皓は劉禅に讒言する。そして、それを信じた劉禅によって劉備の遺詔を受けた身でありながら、10年余りにわたり、朝廷への参内を許されない立場に追い込まれた。
 
[[264年]]の蜀漢滅亡後兄と共に[[司馬昭]]によって[[洛陽]]に強制的に移住させられそこで奉車都尉に任じられ、郷侯にじられた。
 
没年は不明。
ちなみに、劉備の末裔は[[永嘉の乱]]に巻き込まれ、劉永の孫である[[劉玄 (東晋)|劉玄]]以外は、安楽公の[[劉恂]]を含めて全て皆殺しにされた。
 
ちなみに、[[311年]]、[[永嘉の乱]]が起こり、劉備の子孫はほとんど殺害された。しかし、劉永の孫である[[劉玄 (東晋)|劉玄]]は、難を逃れ益州に帰った。その時、当時益州を治めていた[[成]]の君主[[李雄]]によって安楽公に封じられ、劉禅の後を継いだ。
 
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