「石巻ハリストス正教会」の版間の差分

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湊では伝教者ボリス山村の宣教によりモイセイ平塚恒次郎をはじめとする29名が[[1877年]]1月8日に[[沢辺琢磨|パウェル沢辺琢磨]]神父巡回時に洗礼を受け、湊聖枝教会が設立された。石巻ではペトル朽木伝教者の宣教により、イオアン伊藤忠右衛門をはじめとする23名が[[1877年]]12月11日に沢辺神父から洗礼を受け、教会が設立された。この時の設立時の名称は「石巻光明会」であった。
 
[[1880年]]に石巻市街地中心部に近い、現在石巻ハリストス正教会が所在する場所に聖使徒イオアン会堂(旧会堂)が設立された<ref>[http://www9.ocn.ne.jp/~higashi/ishinomaki.htm 日本正教会東日本主教区の公式サイト]などでは「[[1879年]]11月」となっており、[http://www.city.ishinomaki.miyagi.jp/ishistcult/bunka/harisutosu.jsp 石巻市の公式サイト]や参考文献と年号の食い違いがみられるが、ここでは「1880年」を採った。</ref>。[[十字架]]型の平面を持つ本格的な会堂であり、教役者住宅も併設されていた。この時、教会の名称が石巻光明会から、「石巻聖使徒イオアン教会」となっている。
 
以降教勢の拡大は目ざましく、周辺10数キロ四方の地域に10箇所の教会が20年あまりの間に誕生している。
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[[1881年]]6月には、[[ニコライ・カサートキン|亜使徒聖ニコライ]]が東北巡回の途中に石巻ハリストス正教会を訪れている。当時の石巻には名簿上116名、実勢としては82名の信徒がいたとされる<ref> ニコライ著/中村健之介 ・中村喜和 ・安井亮平 ・長縄光男編訳『宣教師ニコライの日記抄』北海道大学出版会 ISBN 4-8329-3291-8</ref>。
 
しかしながら[[1904年]]の[[日露戦争]]や[[1917年]]の[[ロシア革命]]後、日本正教会が全国で教勢を低迷させていったことに伴い、この地域での教勢も停滞する。対露感情の悪化や、実際には革命によって[[共産主義]]政権から[[ロシア正教会]]をはじめとした正教会は弾圧を蒙っていたにもかかわらず正教会が「[[アカ]](共産主義)の仲間」と看做されるという理不尽な偏見を受けもたれたことや、革命により母教会たるロシア正教会から資金援助が途絶え伝教者の多くを解雇せざるを得なかったことなどが主な要因であった。
 
石巻市周辺地域に設立された教会組織は順次、聖使徒イオアン教会に統合され、こんにちに至っている。2008年現在の管轄司祭はワシリイ田口三千男である。
 
==旧会堂・聖使徒イオアン会堂==