「中納言」の版間の差分

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'''中納言'''(ちゅうなごん)は、朝廷組織の最高機関、[[太政官]]の職の一つで、[[大納言]]に次ぐ官位で、[[四等官]]の中の次官(すけ)に相当する[[令外官]]。漢風名称([[唐名]])は黄門<ref>[[水戸藩]]主の多くは権中納言に任官していたため「[[水戸黄門]]」と呼ぶ。もっとも有名なのは2代藩主[[徳川光圀]]であり、通常「水戸黄門」と言った場合は光圀のことを指す。<br/>
但し、光圀が藩主の時には参議であり、隠居してから権中納言となった。</ref>、黄門侍郎、門下侍郎、子向などである。官位相当は[[正四位上]]から[[従三位]]に異動。
 
[[大宝 (日本)|大宝]]元年([[701年]])[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]の[[大宝律令]]の施行で廃止されたが、[[慶雲]]2年([[705年]])[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]に[[令外官]]として復活している。時に官位相当は[[正四位上]]。職掌は[[大納言]]の不足を補い、宣旨を奏上し、下問を待ち、太政官の合議に参加する、というもので、大納言とほぼ同様であったが、大納言のように大臣の代行をすることはできない。当初の定員は3人であった。[[天平宝字]]5年([[761年]])[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]、重責にも関わらず、季禄が少ないということで官位相当を[[従三位]]に改める。その後、時代によって任官者は増減し、多いときには10人にのぼることもあったが、[[後鳥羽天皇]]の治世に8人と定められる。
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]以降は大納言と同じく[[権官]]ばかりで正員がなくなったことが[[高田与清]](たかだともきよ)『[[官職今案]]』に見えている。