「土岐頼殷」の版間の差分

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'''土岐 頼殷'''(とき よりたか)は、[[出羽国|出羽]][[上山藩]]の第2代[[藩主]]。のちに[[越前国|越前]][[野岡藩]]を経て、[[駿河国|駿河]][[田中藩]]の初代藩主となった。[[沼田藩]]土岐家3代。
 
寛永19年(1642年)9月3日、上山藩の初代藩主・土岐頼行のとして生まれる(寛永18年生まれとも)。[[寛文]]7年([[1667年]])12月、従四位下、丹後守に叙位・任官するされたやがて、嫡出の弟で嫡子となてい土岐頼長が病弱と不行跡を理由に父によってから廃嫡されたため、[[延宝]]6年([[1678年]])5月27日に世子となる。同年8月16日に父が[[隠居]]したため、[[家督]]を継いで上山藩の第2代藩主となった。ただ庶出だった為なのか、曽祖父・[[土岐定政]]以来、続いていた山城守には成れなかった。(頼殷以降、しばらくは山城守に任じられなくなっている。)
 
[[元禄]]3年([[1690年]])12月に[[奏者番]]に任じられた。元禄4年([[1691年]])1月には[[大坂城代]]に任じられたため、その関係で所領を[[摂津国|摂津]]・[[河内国|河内]]・越前などに1万石加増の上で移封されることとなり、3万5,000石の大名となる。元禄5年([[1692年]])2月25日、越前野岡藩(今立郡野岡)に移封となる。