「ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍」の版間の差分

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=== 1993年-1994年 ===
[[1993年]]、セルビア人勢力との間に大きな前線の変化はなかった。かわって、この年は[[クロアチア人]]勢力との戦闘が激化した。[[中央ボスニア県|中央ボスニア]]や[[ヘルツェゴビナ]]地方、特に[[モスタル]]周辺地域ではクロアチア人勢力との間で激しい戦闘が行われた。一方で重武装のセルビア人勢力の圧迫を受けながら、他方ではクロアチア人の武装勢力・[[クロアチア防衛評議会]](HVO)は、それまでのセルビア人との戦いから転じてボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の支配地域への進攻をはじめた。[[セルビア]]大統領の[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]と[[クロアチア]]大統領の[[フラニョ・トゥジマン]]との間で行われた[[カラジョルジェヴォ会談]]では、ボスニア・ヘルツェゴビナを両国が分割支配する計画について話し合われた。この計画でクロアチア人のものとされた地域がボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の支配下にあったことから、クロアチア防衛評議会はこれを占領して計画を実現しようとした。クロアチア防衛評議会はクロアチア本国からの莫大な支援と、セルビア人勢力からの物資供給を受け、ヘルツェゴビナや中央ボスニア地方で[[ボシュニャク人]]の市民を攻撃し、ボシュニャク人に対する[[民族浄化]]を進めた([[ラシュヴァ渓谷の民族浄化]]など)。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍は貧弱な装備のまま、クロアチア人・セルビア人の勢力に対する二正面作戦を余儀なくされ、全方面で前線の後退を許すこととなった。このとき、地理的な位置関係によって、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍はクロアチア人とセルビア人によって完全に包囲されていた。武器や食糧を輸入する術もなかった。このときのボスニアを救ったのは、武器製造に転用された、巨大な製鉄・重工業の産業地帯であった。クロアチア人勢力とボスニア政府との戦闘は、[[アメリカ合衆国]]の調停による[[ワシントン合意 (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|ワシントン合意]]が成立するまで続いた。この時点を境に、クロアチア人勢力とボスニア政府との戦いは停止し、両者は共同してセルビア人勢力との戦いに向かうことになる。
 
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍とクロアチア防衛評議会の合同により、かつての[[ユーゴスラビア人民軍]]を引き継ぎ圧倒的に装備の面で勝るスルプスカ共和国軍に立ち向かう体制が整えられた。