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'''ムスチスラフ1世'''('''Мстислав I Владимирович''', [[1076年]][[6月1日]] - [[1132年]][[4月14日]])は[[キエフ大公国|キエフ大公]](在位:[[1125年]] - [[1132年]])。「偉大なる」ムスチスラフとあだ名される。[[ウラジーミル・モノマフ]]の長男。
 
== 生涯 ==
1076年に[[スモレンスク]]に生まれる。1093-95年を[[ロストフ]]、そしてスモレンスクで過ごす。1111年には父ウラジーミルと[[クマン人]](ポロヴェツ)に遠征する。1116年に再度遠征し、彼らの町を奪う。1125年に、父の死に伴い、キエフ大公位を相続する。1130年に[[チュジ]]族討伐のために遠征。1132年に死去。大公位は弟の[[ヤロポルク2世]]に渡った
 
== 子女 ==
1125年に、父の死に伴い、キエフ大公位を相続する。1130年に[[チュジ]]族討伐のために遠征。1132年に死去。大公位は弟の[[ヤロポルク2世]]に。
1095年に[[スウェーデン王]][[インゲ1世 (スウェーデン王)|インゲ1世]]の娘クリスティーナと結婚し、10人の子女をもうけた。
 
*インゲボラ…[[シュレースヴィヒ公国|ユトランド伯]][[クヌート・ラヴァルド]]と結婚、[[デンマーク王]][[ヴァルデマー1世 (デンマーク王)|ヴァルデマー1世]]の母親
結婚は二度。最初の妻は[[スウェーデン]]の王妃クリスティーナであり、彼女との間に4人の息子(フセヴォロド、[[イジャスラフ2世|イジャスラフ]]、ロスチスラフ、スヴャトポルク)と6人の娘を得る。
*[[マルムフレッド]]…[[ノルウェー王]][[シグルド1世 (ノルウェー王)|シグルド1世]]と結婚、[[デンマーク王]][[エリク2世 (デンマーク王)|エリク2世]]と再婚
 
*エウプラキヤ…[[ビザンツ皇帝]][[ヨハネス2世コムネノス]]の長男アレクシオス・コムネノスと結婚
1122年に先妻が死んだ後、[[ノヴゴロド]]市長のドミトル・ザビジチの娘リュバヴァを妃に迎える。二人の息子(ヤロポルク、ウラジーミル)、そして[[ハンガリー]]王の[[ゲーザ2世]]に嫁いだエフロシニアをもうけた。
*[[フセヴォロド・ムスチスラヴィチ (プスコフ公)|フセヴォロド]]
*マリヤ(アガファ?)…[[フセヴォロド2世]]と結婚、子女5人
*[[イジャスラフ2世]]
*[[ロスチスラフ1世]]
*[[スヴャトポルク・ムスチスラヴィチ (プスコフ公)|スヴャトポルク]]
*ロクネダ…[[ヴォルィーニ公国|ヴォルィーニ公]][[ヤロスラフ (ヴォルィーニ公)|ヤロスラフ]]
*クセニヤ…[[イジャスラヴリのブリャチスラフ]]と結婚
 
クリスティーナと死別(1122年1月18日)後、、[[ノヴゴロド]]市長のドミトル・ザヴィジチの娘リュバヴァと再婚し、3人の子女をもうけた。
*ヤロポルク
*[[ウラジーミル2世ムスチスラヴィチ|ウラジーミル2世]]
*エウフロシヤ…[[ハンガリー王]][[ゲーザ2世]]と結婚、子女6人
 
{{先代次代|[[キエフ大公国#歴代大公|キエフ大公]]|19代<br>1125年 - 1132年|[[ウラジーミル2世モノマフ]]|[[ヤロポルク2世]]}}
{{ロシア君主一覧}}
[[Category:キエフ大公|むすちすらふ1]]
[[Category:ノヴゴロド公|むすちすらふ1]]
[[Category:ロストフ公|むすちすらふ1]]
[[Category:ベルゴロド公|むすちすらふ1]]
[[Category:1076年生|むすちすらふ1]]
[[Category:1132年没|むすちすらふ1]]