「第二次モロッコ事件」の版間の差分

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[[第一次モロッコ事件]]での緊張は[[アルヘシラス会議]]によって表面上は解消され、フランスはモロッコに対する影響力を強めた。[[1908年]][[9月]]、[[フランス外人部隊]]の兵士3名が[[カサブランカ]]でドイツ船に乗って逃走したことから独仏が衝突したが、この時はドイツの譲歩によって[[1909年]]2月、両国間にモロッコに関する協定が成立した。これにより、ドイツはモロッコにおいて経済活動のみを行い、モロッコにおけるフランスの政治的優位を認めた。しかし、ドイツの野心はいまだ消えてはいなかったのである。
 
== 威嚇発生と経過 ==
[[Image:Paul Cambon 01.jpg|thumb|right|140px|仏大使カンボン]]
[[Image:Ed Grey.jpg|thumb|right|140px|英外相グレイ]]
1911年、[[ベルベル人]]が大規模な反乱を起こした。同年4月、フランスは鎮圧のためモロッコに出兵。これに対してドイツは、同地に在住する自国民の生命・財産の保護を口実として、[[7月1日]]、にわかに砲艦パンター号 (Panther 「パンテール」と表記した文献もある。ドイツ語で[[ヒョウ|豹]]の意味) を[[アガディール]] (Agadir) に派した。なお、実際にはアガディールにはドイツ人は居住しておらず、このためだけに近隣のドイツ人を呼び寄せたという。
 
独仏関係は再び緊張した。[[7月3日]]、駐英フランス大使[[:en:Paul Cambon|カンボン]]は[[イギリス]]外相[[:en:Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon|グレイ]]に対し、アガディールに共同で軍艦を派遣するよう強く要求した。これを受けてグレイは、翌4日に閣議を開催する方針を決定。一方、[[ドイツの首相|ドイツ首相]][[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク|ベートマン・ホルヴェーク]]は駐英ドイツ大使メッテルニヒに対し、もしイギリスが強硬措置に出た場合、「パンター号の派遣は、フランスとスペインのアルヘシラス議定書違反に伴う経過措置に過ぎない」と弁明するよう命じた。しかし独仏関係は強い敵対状態になり、両国の全面衝突は避けられないかとも思われ、ベルリンの証券取引所でパニックが起こったほどである
 
== 妥結 ==