「広島国際会議場」の版間の差分

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この案は、市を東西に貫く[[平和大通り]]と直交する南北軸線上に[[原爆ドーム]] - [[原爆死没者慰霊碑]] - 広島平和記念資料館を配置し、平和資料館を中心に平和記念館と集会所を東西軸に配置しスロープで結ぶものだった。
 
1953年1月、ラジオ中国<ref>現・[[中国放送]]</ref>にて田中好一<ref>当時・山陽木材防腐(現[[ザイエンス]])社長</ref>が、「広島に立派な公会堂とホテルと物産陳列館をつくることが私の夢だ」と発言<ref>[http://www.penta-ocean.co.jp/project/pj_story/004.html 五洋建設作品紹介]参照</ref>。これに地元財界が呼応し市に寄付というかたちで、1955年丹下案の集会所に当たる場所に「広島市公会堂」が建設された<ref>[http://www.penta-ocean.co.jp/project/pj_story/004.html 五洋建設作品紹介]参照</ref>。当時は市内随一の多目的ホールで、同年8月には第1回[[原水爆禁止世界大会]]が開催された。ちなみに、当初は西隣に「新広島ホテル」も合築されていた。<ref>1972年に[[都市公園法]]違反...公園管理者以外のものが公園施設を管理する時は市への申請書提出と市の許可がいるが、その手続きがなかった....と指摘された(1972年2月2日付および2月13日付[[中国新聞]]参照)。翌1973年に閉鎖し、スタッフは1962年に開業していた同じ[[リーガロイヤルホテル|ロイヤルホテル]]系列の広島グランドホテルへ移っている。広島グランドホテルは1994年に[[NTTクレド|基町クレド]]に移転して、現在は[[リーガロイヤルホテル広島]]になった。グランドホテル跡地には、2003年に[[アーバンビューグランドタワー]]が建てられた。</ref>。
 
ただ、その外観は丹下案のデザイン構想からほど遠いことから、数年後には一部市民より建て直すよう要望が出たようである。