「龍造寺長信」の版間の差分

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'''龍造寺 長信'''(りゅうぞうじ ながのぶ、[[天文 (元号)|天文]]8年([[1539年]])? - [[慶長]]8年([[1603年]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の人物。[[龍造寺周家]]の三男で、[[龍造寺隆信]]の末弟(母は慶)。妻は[[小田政光]]の娘。子に[[多久安順]]、女子([[後藤家忠]]室)。和泉守。
 
[[1558年]]、[[龍造寺氏]]が調略により[[小田政光]]を滅ぼした際に、[[小田氏]]の居城であった[[蓮池城]]を接収したが、後に政光の遺児の[[小田鎮光]]を赦免し城主とした。龍造寺氏は[[1559年]]に[[少弐冬尚]]を滅ぼし、[[少弐氏]]を滅亡に追い込んだが、冬尚の弟の[[少弐政興]]は再興をめざし反乱を起こす。[[1563年]]には龍造寺氏は政興に協調した[[多久宗利]]を下し、[[多久氏]](前多久氏)の居城であった[[梶峰城]]を奪い、長信が城主となった。
[[小田政光]]を倒した際、彼の居城の[[蓮池城]]を自らの居城とした。
 
[[1568年]]、長信は梶峰城を鎮光に譲り、[[小田氏]]の居城であった[[蓮池城]]を自らの居城とした。小田氏との友好を深めるため鎮光の妹を娶っていたが、[[豊後国|豊後]][[大友氏]]の圧力が強まると鎮光は大友氏に寝返ったため、梶峰城を追放され、再び長信が城主となった。武雄[[後藤氏]]の[[後藤貴明]]が梶峰城を攻め取ろうとしたが、これを退けている。
嫡男の初代多久領主の[[多久安順|安順]]は、[[多久氏]]の祖となる。
 
[[大江神大神宮]]の再興、[[聖光寺]]や[[岩松軒寺]]の建立など、伝統的な宗教勢力との関係を良好にし、統治の安定を図った。また、近年に梶峰城跡で発掘された遺構は長信が城主の時代のものと推測されている。
 
嫡男の初代多久領主の[[多久安順|安順]]は、[[多久氏]]の祖となる。
 
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[[category:戦国武将]]
[[Category:龍造寺氏|なかのふ]]