「サライ (都市)」の版間の差分

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新旧のサライのほか、ジョチ家第12代当主[[ジャニベク]](在位[[1342年]] - [[1357年]])は[[カザフスタン]]最西部の[[アティラウ州]]周辺に遷都し、サライ・チクという都市を築いている。[http://www.littera.waseda.ac.jp/faculty/akasaka/zousho/bkkki12.html]
 
バトゥ・サライ(旧サライ)やベルケ・サライ(新サライ)はたびたび破壊されている。[[ティムール]]は[[1395年]]、征服途上でサライ(おそらく新サライ)を破壊した。[[クリミア・ハン国]]の[[メングリ1世ギレイ]]は[[1502年]]にサライ(おそらく新サライ)を破壊し、大オルダを滅ぼした。サライの最後の破壊は[[1556年]]、[[モスクワ大公国]]の[[イヴァン4世]]が[[アストラハン・ハン国]]を征服した後であった。
 
[[1623年]]から[[1624年]]にかけて、商人フェドット・アファナシェヴィッチ・コトフ(Fedot Afanasyevich Kotov)はペルシャへ旅し、途中通ったヴォルガ下流について次のように述べている。