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'''大石 大三郎'''(おおいし だいさぶろう、[[元禄]]15年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[1702年]][[7月29日]]) - [[明和]]7年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]([[1770年]][[3月11日]]))は[[江戸時代]]中期の[[武士]]。[[安芸国]][[広島藩]]士。[[忠臣蔵]]で有名な[[大石良雄|大石内蔵助良雄]]の子。名は'''良
==誕生==
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==広島での大三郎==
[[享保]]2年([[1717年]])12月12日に元服し、享保6年([[1721年]])9月19日には藩主[[浅野吉長|浅野安芸守善吉長]]の命により浅野氏一族の[[浅野忠喬|浅野帯刀忠喬]](広島藩[[家老]]・知行5000石)の娘と結婚した。なお姉の[[大石るり]]も先立つ[[正徳 (日本)|正徳]]4年(1714年)にやはり吉長の命によって浅野一族の[[浅野直道|浅野監物直道]]と結婚させられている。<!--大石内蔵助の子らを浅野一族に組み込もうという狙いがあったのだろう。
-->しかしこの妻とはうまくいかず、離縁している。<!--藩主の命令による家老の娘との縁組を破棄するのだからよほど気が合わなかったのだろう。-->そのあと広島藩士岡田助右衛門の娘を妻に迎えたが、やはりうまくいかず、享保19年に離縁。さらに延享2年には広島藩士浅野八郎左衛門の娘を妻に迎えたが、またしてもうまくいかず離縁。<!--ほとんど芸能人なみの女遍歴である。ここまでくると大三郎に問題があったような気がしてならない。内蔵助の息子という金看板が周囲に過大な期待を抱かせた結果、実像とのギャップ、失望という悪影響を及ぼした可能性もある。--> なお広島藩内においては旗奉行次席・番頭・奏者頭などの重職を歴任したが、「翁草」などには品行がよくなかったという記事が残る。三田村鳶魚の「横から見た赤穂義士」などでは大三郎が梅毒になって鼻欠けになっただとか、1500石の知行を減俸されたなどと書いているが、これらは俗説に過ぎず、確かな根拠はない。<!--それにそんなものに番頭の地位はまわってはこないだろう。-->
しかし、芸州広島浅野本家で拝領した1500石は、分家
赤穂での1500石とレベルが低くなって重みが違った。
また、殿様の姫を拝領した縁談による立身など、これは
やはり親の七光りでの禄高であった。本人にとっては
かなり重かったようである。言葉が不自由だったとも
いわれ、今で言う発達障害があったともいわれている。
母・りくは縁座を避けるための書類離婚だったため、
浪士たちの行為が幕府への反逆では「ない」とされたこと
から、特に浅野本家に仕えてからは大石姓への復籍
仕官が許可され、りくは「大石 りく」に戻り、
外衛も「大石」姓で仕官した。当時としては稀である。
==家督相続==
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