「大塚英志」の版間の差分

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==略歴==
[[東京都]][[田無市]](現[[西東京市]])生まれ。[[筑波大学]]第一学群人文学類卒業。大学では[[千葉徳爾]]に師事の指導の下で、日本[[民俗学]]を専攻研究した。当初は研究者を目指したが、師と仰ぐ[[宮田登]]に{{要出典範囲|口頭試問で「君の発想はジャーナリスティックすぎて学問には向かない」と引導を渡されて大学院への進学を断念}}
 
高校時代にはギャグ漫画家としてデビューを果たす。その後、学生時代は「大塚えいじ」のペンネームで漫画同人集団「[[作画グループ]]」に所属。同人誌『GROUP』創刊号(1978)にギャグ漫画『トマト暗殺団』を掲載。卒業後、漫画家の[[沢田ユキオ]]と雑誌『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』、『[[プチアップルパイ]]』([[徳間書店]])の編集長を[[アルバイト]]の身分のまま務める。アルバイト編集者として[[石森章太郎]]の担当を一ヶ月ほど務め、この時にまんがの[[ネーム]]の見方について[[石森章太郎]]から徹底的に指導された
 
[[アルバイト]]の編集者から[[正社員]]の編集者となり、その後[[フリーランス|フリー]]の編集者として<!---保留 ポルノ--->[[漫画雑誌|漫画誌]]『[[漫画ブリッコ]]』([[白夜書房|セルフ出版]]発行)の編集長を務めた。この雑誌は現在の[[コアマガジン]]発行の漫画雑誌の源流にあたる。ここで「大塚某」という記者名で寄稿した多くの発言が、後の評論家としての大塚の基礎を作った。編集者としては、[[岡崎京子]]、[[白倉由美]]、[[藤原カムイ]]、[[あぽ]]([[かがみあきら]])などの[[漫画家]]、映画イラストライターの[[三留まゆみ]]等をこの雑誌で発掘したことが業績とされている。また、[[1985年]]に創刊された『月刊少年キャプテン』([[徳間書店]]発行、[[1997年]]2月号にて休刊)では、『[[強殖装甲ガイバー]]』の初代編集者を務めた。
卒業後、漫画家の[[沢田ユキオ]]と雑誌『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』、『[[プチアップルパイ]]』([[徳間書店]])の編集長をアルバイトの身分のまま務める。アルバイト編集者として[[石森章太郎]]の担当を一ヶ月ほど務め、この時にまんがのネームの見方について[[石森章太郎]]から徹底的に指導された。
同時に、まんが原作者としての仕事も多く、本人もれをもって本業と称している。代表作としては『多重人格探偵サイコ』『木島日記』など。これら作品は自らノベライズもしている。一方で、学者としてのキャリア断念した都市民俗学においても執筆活動を行い、『少女民俗学』『物語消費論』『人身御供論』などを上梓。[[サブカルチャー]]に詳しい評論家として、論壇で一定の地位を得る。
 
アルバイト編集者から正社員編集者となり、その後[[フリーランス|フリー]]の編集者として<!---保留 ポルノ--->[[漫画雑誌|漫画誌]]『[[漫画ブリッコ]]』([[白夜書房|セルフ出版]]発行)の編集長を務めた。この雑誌は現在の[[コアマガジン]]発行の漫画雑誌の源流にあたる。ここで「大塚某」という記者名で寄稿した多くの発言が、後の評論家としての大塚の基礎を作った。編集者としては、[[岡崎京子]]、[[白倉由美]]、[[藤原カムイ]]、[[あぽ]]([[かがみあきら]])などの[[漫画家]]、映画イラストライターの[[三留まゆみ]]等をこの雑誌で発掘したことが業績とされている。また、[[1985年]]に創刊された『月刊少年キャプテン』([[徳間書店]]発行、[[1997年]]2月号にて休刊)では、『[[強殖装甲ガイバー]]』の初代編集者を務めた。
同時に、まんが原作者としての仕事も多く、本人もこれをもって本業と称している。代表作としては『多重人格探偵サイコ』『木島日記』など。これらの作品は自らノベライズもしている。
 
この一方で、学者としてのキャリアは断念した都市民俗学においても執筆活動を行い、『少女民俗学』『物語消費論』『人身御供論』などを上梓。[[サブカルチャー]]に詳しい評論家として、論壇で一定の地位を得る。
 
[[1988年]]から[[1989年]]にかけて起きた[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]には衝撃を受け、即時に、『[[漫画ブリッコ]]』での連載コラムで「[[おたく]]」という言葉を発明した、[[中森明夫]]との対談集『Mの世代―ぼくらとミヤザキ君』を上梓。[[サブカルチャー]]文化が事件を誘発したかのように決め付ける風潮に異議を唱え、「(犯人の)彼が部屋に蓄えた6000本のビデオテープをもって、彼が裁かれるのであれば僕は彼を弁護する」「彼の持っていたビデオテープの中に、ホラー作品や性的なものは100本しかなかった」と発言。実際に一審の弁護側証人を務めた(“後年はほぼ「ほったらかし」にしていた”と[[大月隆寛]]は皮肉っているが、一方、”後期の裁判費用はほとんど大塚が出していたんではないか”という[[福田和也]]の証言もある)。
 
本業の関係上、[[漫画]]に関する評論が特に多く、サントリー学芸賞を受賞した『戦後まんがの表現空間』などがあるが、『サブカルチャー文学論』のような文芸評論、『彼女たちの連合赤軍』のような[[フェミニズム]]論、『サブカルチャー反戦論』のような[[戦後民主主義]]を論じた評論など、多彩かつ旺盛な執筆活動を続けている。『[[群像]]』2002年6月号に掲載された「不良債権としての『文学』」は、[[純文学論争#1990年代の論争|純文学論争]]を巻き起こしたが、大塚はその主張の延長として「商品としての純文学」を実証するために、「[[文学フリマ]]」を提唱。2002年11月から、毎年開催されている。
 
『[[群像]]』2002年6月号に掲載された「不良債権としての『文学』」は、[[純文学論争#1990年代の論争|純文学論争]]を巻き起こしたが、大塚はその主張の延長として「商品としての純文学」を実証するために、「[[文学フリマ]]」を提唱。2002年11月から、毎年開催されている。
 
[[1980年]]代末より私大の非常勤講師を歴任。[[2006年]]4月に[[神戸芸術工科大学]]先端芸術学部メディア表現学科[[教授]]に就任。また[[東京藝術大学]]大学院映画研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。
 
[[1980年]]代末より私大の[[非常勤講師]]を歴任。[[2006年]]4月に[[神戸芸術工科大学]]先端芸術学部メディア表現学科[[教授]]に就任。また[[東京藝術大学]]大学院映画研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。
[[2005年]]から[[文学]]・[[漫画|コミック]]・[[フィギュア]]などジャンルを超えて展開しているギャラリー[[Hapworth16]]の運営に携わっている。
 
[[2005年]]から[[文学]]・[[漫画|コミック]]・[[フィギュア]]などジャンルを超えて展開しているギャラリー[[Hapworth16]]の運営に携わっている。近年は、柳田民俗学と[[自然主義文学]]、[[ナショナリズム]]、[[オカルティズム]]との関係を論じた本や、小説やまんがの入門書を続けて刊行している。
 
==漫画原作==