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父は8代執権[[北条時宗]]の弟・[[北条宗政]]。母は7代執権[[北条政村]]の娘で、当時二番引付頭人であった[[北条時村]]の妹。父の死後に伯父にあたる[[北条時宗]]の[[猶子]]となる。妻は従兄弟である9代執権[[北条貞時]](時宗の子)の娘。
 
[[永仁]]元年([[1293年]])19歳の若さで5月30日[[評定衆]]、6月5日三番引付頭人、10月20日執奏、12月20日従五位上と、鎌倉政権の中枢に抜擢される。北条貞時が、[[平頼綱]]を永仁の[[鎌倉大地震]]に乗じて誅殺して実権を取り戻した[[平禅門の乱]]の直後である。
 
[[引付衆]]を経ずに評定衆となるのは、[[得宗]]家一門と赤橋家の嫡男のみに許される特権とされる。これにより師時は北条氏庶流というより得宗家の一員と見なされていたとされる。またそれが平禅門の乱の直後であり、また父北条宗政を凌ぐ要職であることから、単に家格だけではなく、兄弟の居ない貞時が、自分にとって一番近い血縁である師時や、もう一人[[北条宗方]]を政権の中枢に引き上げることによって、周りを固めようとしたとも見られている。