「パーヴェル・アレクサンドロヴィチ」の版間の差分

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== 革命と処刑 ==
[[ボリシェヴィキ]]による権力掌握後、パーヴェル大公一家の財産は没収され、ボリシェヴィキの監視と嫌がらせの中で生活することを余儀なくされた。[[1918年]]3月、大公の次男ウラジーミル・パーレイ公は[[ウラル]]に移送され、[[1918年]][[7月18日]]に虐殺された。同年8月にパーヴェル大公も逮捕され、[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]の刑務所に収監された。大公の健康はひどく損なわれ、次第に衰弱していった。オリガは、大公を救出すべくあらんかぎりの努力を尽くした。しかし、その願いも虚しく、[[1919年]][[1月29日]]、パーヴェル大公は[[ペトロパヴロフスク要塞]]に移され、翌30日に[[ドミトリー・コンスタンチノヴィチ|ドミトリー・コンスタンチノヴィチ大公]]([[:en:Grand Duke Dmitri Konstantinovich of Russia|en]])、[[ニコライ・ニコラエヴィチ|ニコライ・ニコラエヴィチ大公]]、[[ゲオルギー・ミハイロヴィチ|ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公]]([[:en:Grand Duke George Mihailovich of Russia|en]])らと共に虐殺された。ボリシェヴィキによって大公の遺骸は、要塞内の[[集団墓地]]に埋葬された。ボリシェビキはオリガに対して[[埋葬式]]を許さず、大公の遺体の行方は不明のままである。
 
== 子女 ==
最初の妻[[アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ]]との間には、一男一女をもうけた。