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{{武士/開始|中山信吉}}
'''中山 信吉'''(なかやま のぶよし、[[天正]]5年([[1577年]])- [[寛永]]19年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]([[1642年]][[2月5日]]))は、[[常陸松岡藩]]の初代当主。[[水戸藩]][[附家老]]・中山家初代。
{{武士/時代|[[江戸時代]]}}
{{武士/生誕|[[天正]]5年([[1577年]])}}
{{武士/死没|[[寛永]]19年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]([[1642年]][[2月5日]])}}
{{武士/改名|菊太郎(幼名)、雅楽助(通称)}}
{{武士/墓所|智観寺}}
{{武士/官位|従五位下、備前守}}
{{武士/藩|常陸[[水戸藩]]}}
{{武士/氏族|[[中山家]]}}
{{武士/父母|父:[[中山家範]]、母:片倉氏}}
{{武士/兄弟|兄:[[中山照守]]}}
{{武士/妻|正室:久下氏}}
{{武士/子|[[中山信政]](長男)、[[中山吉勝]](次男)、<br />[[中山信治]](四男)}}
{{武士/終了}}
'''中山 信吉'''(なかやま のぶよし、[[天正]]5年([[1577年]])- [[寛永]]19年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]([[1642年]][[2月5日]]))は、[[常陸松岡藩]]の初代当主。[[水戸藩]][[附家老]]・中山家初代。
 
== 来歴 ==
[[小田原北条氏]]家臣で[[八王子城]]主将・[[中山家範]]の次男。母は片倉氏。正室は久下某の娘、継室は塩谷義上の娘。子は[[中山信政]](長男)、中山吉勝(次男)、[[中山信治]](四男)。官位は従五位下、[[備前国|備前]]守。幼名、菊太郎。通称、雅楽助。
[[1577年]]、[[小田原北条氏]]家臣・中山家範の次男として生まれた。
 
天正18年([[1590年]][[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]で父・家範はにおける[[八王子城を守り]]攻防戦で家範は討死した。残された長男・するが、戦後は兄[[中山照守|照守]]と次男・信吉はともに[[徳川家康]]に召し抱られ、信吉は[[小姓]]役(1500石)なるして家康に仕えた
 
[[1607年]]、家康の11男[[徳川頼房|頼房]]が[[下妻]]10万石に配されるに伴い、特に頼房に附属されて家老(6500石)に任じられる。[[1609年]]、頼房の[[水戸]]転封により1万5000石に加増される。[[1616年]]、従五位下備前守に叙任し、[[1621年]]には2万石に加増。翌年、常陸松岡(現在の[[茨城県]][[高萩市]])を居所とした。
[[慶長]]12年([[1607年]])、家康の11男[[徳川頼房]]に付属される。信吉の正直な性格や人柄が家康の厚い信任を得ていたものと思料される。
 
信吉の正直な性格や人柄が、家康の厚い信任を得ていたものと思料される。また、頼房の後継が定まらなかった頃、将軍[[徳川秀忠|秀忠]]に対して2代藩主に[[徳川光圀|光圀]]を推挙したと伝えられる。
慶長14年([[1609年]])、[[常陸国]]内に1万5000石を与えられて、併せて附家老に任命される。[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])叙任、元和7年([[1621年]])には新たに2万石に加増。翌年、松岡を居所とした。
 
1642年死去。享年65歳。
頼房の継嗣が定まらなかった頃、徳川家康に対して、水戸藩2代藩主に[[徳川光圀]]を推挙したのは信吉であったと光圀の伝記(「桃源遺事」)に伝えている。
 
寛永19年(1642年)死去。[[家督]]は長男・信政が継いだ。墓所:[[埼玉県]][[飯能市]]中山の智観寺。
 
{{先代次代|常陸国内|1609年 - 1622年|-|-}}
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