「伊集院忠真」の版間の差分

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なお忠真帰属後も[[島津義久]]・忠恒はこれを警戒し、[[関ヶ原の合戦]]直前、義弘は再三に渡り派兵を催促したが、乱を恐れ大規模な派兵が容易に行えず、そのため義弘は関ヶ原において大大名らしからぬ少数ゆえの苦戦を強いられたと言われている。
 
慶長7年([[1602年]])、関ヶ原の役の謝罪のために忠恒は伏見へ上洛することになり、忠真もこれに従っていた。しかし、[[日向国|日向]]野尻で狩りの最中に忠恒の命により討たれた。庄内の乱後、弟の[[伊集院小伝次|小伝次]]、[[伊集院三郎五郎|三郎五郎]]、[[伊集院千次|千次]]、そして忠真の母はそれぞれ別の島津家家臣の屋敷に身柄を預けられていたが、忠真が討たれた日に全員が殺害され、伊集院一族は皆ことごとく粛清された。
 
忠真の死は対外的には[[淵脇平馬]]の誤射によるものとして処理され、淵脇は切腹となった。しかし数年後に遺族は上級家臣である城士に取り立てられており、島津家による褒賞が行われたと見られる。
 
法名は真香良庵居士。