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京極忠高

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寛永11年([[1634年]])には、毛利家にたいする押さえとして、京極氏が室町時代に[[守護]]をつとめた[[出雲国]]、[[隠岐国]]二カ国へ加増転封となり、[[石見銀山]]も当てられる。ちなみに戦国期に毛利家と死闘を繰り広げた尼子氏は、[[京極家]]の[[守護代]]である。
 
将軍家姻戚として優遇された京極家だったが、正室・初姫との夫婦仲はよくなかったとみられる。寛永7年([[1630年]])に初姫が死去した際は、忠高は臨終に立ち会うこともなく[[相撲]]見物に興じていたと伝えられる。このため舅である[[大御所]]・秀忠の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠により徳川家所縁の小石川の伝通院にてとり行われ、忠高をはじめ京極家関係者は葬儀への臨席を許可されなかった。
 
寛永14年(1637年)、45歳で死去。嗣子がなかったため、[[京極氏]]は改易されかけたが、それまでの徳川家に対する忠義を考慮されて、甥に当たる[[京極高和]]が[[播磨国|播磨]][[龍野藩|龍野]]に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許された。正室初姫との間に子供をなさなかったが、側室との間に一女をもうけた。
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