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文化財 = 本堂、木造千手観音立像他(重要文化財)|
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[[画像:Siga-cyomeiji5533.JPG|240px|thumbnail|三重塔(化財)]]
'''長命寺'''(ちょうめいじ)は、[[滋賀県]][[近江八幡市]]にある[[寺院]]。山号は姨綺耶山(いきやさん)。[[西国三十三箇所]]第三十一番札所。[[天台宗]]。[[聖徳太子]]の開基と伝える
[[聖徳太子]]が開基したとされる。
 
==沿革歴史==
琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る800段余の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、船で長命寺に参詣した。
伝承によれば、第12代[[景行天皇]]の時代に、[[武内宿禰]]がこの地で柳の木に「寿命長遠諸元成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。
 
伝承によれば、第12代[[景行天皇]]の時代に、[[武内宿禰]]がこの地で柳の木に「寿命長遠諸元成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。
 
実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師宿禰助正解文」(おくしましょうじ はじのすくねすけまさ げぶみ)という文書である。
その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。長い階段で有名。昔の巡礼者は、船によって長命寺に参詣した。
 
== 本尊 ==
「千手十一面聖観世音菩薩三尊一体」、つまり、[[千手観音]]、[[十一面観音]]、[[聖観音]](しょうかんのん)の3体が長命寺の本尊であるとされている。本堂内陣の厨子には、中央に千手観音像、向かって右に十一面観音像、左に聖観音像が安置されている(いずれも重要文化財、秘仏)。千手観音像(像高91.8cm)は一木割矧造、素地截金仕上げで、平安時代末期、12世紀頃の作と推定される。十一面観音像(像高53.8cm)は、千手観音像より古い10世紀ないし11世紀の作と推定され、こちらが当初の本尊であった可能性もある。聖観音像(像高67.4cm)は鎌倉時代の作と推定される。これらの像を安置する厨子は前の間と後の間に区分され、後の間には[[地蔵菩薩]]立像と[[薬師如来]]立像を安置する。
 
西国三十三所巡礼に関する確実な史料で最古のものとされる『寺門高僧記』所収の行尊の巡礼記(11世紀末頃)では長命寺の本尊を「三尺千手」としており、同じく『寺門高僧記』所収の覚忠の巡礼記(応保元年・1161年)では本尊を「三尺聖観音」とするなど、古い時代に本尊が入れ替わっていることが記録から伺える。
 
これらの観音像は厳重な秘仏とされ、平素は公開されていない。西国三十三所観音巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌を記念して2008年から2010年にかけて、西国三十三所の各札所寺院で「結縁開帳」が行われることとなり、長命寺の本尊は2009年10月1日から10月31日の間、開扉されることとなった。これは1948年以来、61年ぶりの開扉である。
 
== 文化財 ==
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*木造十一面観音立像 - 平安時代
*金銅透彫華鬘(こんどうすかしぼりけまん)1面 - 寛元元年(1243年)銘 附:金銅透彫華鬘5面
 
*長命寺文書、「楽書誤証文」他5474点 - [[2008年]][[7月23日]][[滋賀県指定文化財一覧 | 県指定]]
;滋賀県指定有形文化財
*長命寺文書、「楽書誤証文」他5474点 - [[2008年]][[7月23日]][[滋賀県指定文化財一覧 | 県指定]]
 
== 所在地 ==
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*JR[[近江八幡駅]]より[[近江鉄道バス]]20分長命寺下車徒歩15分
 
==前後の札所==
;[[西国三十三箇所]]
:30 [[宝厳寺]] -<small></small>- '''31 [[長命寺]]''' -<small></small>- 32 [[観音正寺]]
 
== 参考文献 ==
*井上靖、塚本善隆監修、中島千恵子、,武内祐韶著『古寺巡礼近江7 長命寺』、淡交社、1980
*『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』、平凡社
*『角川日本地名大辞典 滋賀県』、角川書店