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ピリッポス5世は[[第1次マケドニア戦争]]、[[第2次マケドニア戦争]]にて西方からの新興勢力であった[[共和政ローマ]]と戦ったが敗北、以降はローマとの同盟関係を重視また利用してマケドニアのギリシア近隣での影響力の強化に努めた。
 
===幼少期===
[[紀元前229年]]に父王が没すると王位に就任、ピリッポスがいまだ幼少であったため従兄の[[アンティゴノス3世|アンティゴノス3世ドソン]]が王として政務を担った。[[紀元前221年]]ピリッポスが17歳の時にアンティゴノスが没すると王位に就く。いまだ歳若い王であったが、マケドニア北部からの[[ダルダニ人]]の進攻を食い止めるなど統率力を見せた。
 
[[紀元前220年]]から[[紀元前217年]]にかけてギリシアで内紛が生じるとピリッポスの扇動に応じる形でヘレネス同盟の軍が[[コリント]]に集結、同盟の主導権を握った彼は[[アエトリア]]、[[スパルタ]]、[[エーリス|エリス]]に対して軍事行動を起こす。この一連の行動により彼はギリシアでの指導的な立場を確立し、ギリシア外でもその名が知られるようになった。
 
===第1次マケドニア戦争===
ギリシアでの地位を確立したピリッポスはやがて[[アドリア海]]湾岸部でのローマの影響力を阻害しようと画策する。まず彼は海路より[[イリュリア]]に進攻、初回はうまくいかなかったものの再度進攻して成功を収め、イリュリアを支配下にする。また[[第2次ポエニ戦争]]を利用して[[紀元前215年]]にはローマに進攻中の[[カルタゴ]]の武将[[ハンニバル]]と同盟を結び、ローマと対抗していく。しかしながら[[紀元前211年]]にローマが[[アエトリア同盟]]と同盟関係となるとピリッポスの影響力は次第に衰えていき、さらにローマの支援を受けた[[ペルガモン]]の[[アッタロス1世]]の進攻を受けるなど劣勢に立たされるようになった。
 
劣勢になりつつあるものの、いまだマケドニアは健在でピリッポスはにわかに勢力を増してきた[[アカイア同盟]]の指導者[[フィロポエメン]]に近づいてローマの隙を突いて[[紀元前207年]]にはペルガモンの勢力をギリシア本土から一掃、アエトリア地方の宗教的な中心地であるテルムムを陥落させ、アエトリアの諸都市を屈服させ、ローマの息のかかったギリシア諸都市と[[フォエニケの和約]]を結び、有利に戦局を進める事に成功した。時勢に乗るピリッポスはこれを機に[[セレウコス朝]]の[[アンティオコス3世]]と共同でまだ若年の[[プトレマイオス朝]]の王[[プトレマイオス5世]]の支配下にあった[[エーゲ海]]地方に進攻、マケドニアの攻勢を恐れるペルガモン、[[ロドス]]など他のギリシア諸都市は[[紀元前201年]]にピリッポスを海戦で破る。この同時期に西方のローマもカルタゴを下していた。
 
===第2次マケドニア戦争===
[[第2次ポエニ戦争]]が終わり、[[カルタゴ]]の脅威がなくなると[[共和政ローマ]]との関係に軋轢が生じる。[[紀元前200年]]にローマがマケドニアがギリシア諸都市の安全を脅かしていると干渉、ギリシアに軍団の派兵を決めると武力で対抗、しかし[[紀元前197年]]の[[キュノスケファライの戦い]]でローマの指揮官[[ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス|フラミニヌス]]に致命的な敗北をする。
 
===戦後以降===
戦後マケドニアとローマとの間で条約が結ばれ、マケドニアは1000タレントの賠償金を支払され、息子デメトリオスは人質としてローマに送られた。その後はローマと親睦を深め[[スパルタ]]と対立、スパルタ王[[ナビス]]がローマと戦った際にはローマ側として支援した。またピリッポスはローマと[[セレウコス朝]]の[[アンティオコス3世]]との対立にもローマ側として支援している。この支援に見返りとして、[[紀元前190年]]に[[スキピオ・アフリカヌス]]と[[スキピオ・アシアティクス]]がマケドニアを訪問した際にフィリッポスは残りの賠償金の免除され、および息子デメトリウスもローマの人質から解放された。そしてピリッポスはマケドニア国内の財政など国内の再構築に着手する。