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'''趙無恤'''(ちょうぶじゅつ/ちょうむじゅつ、? - [[紀元前425年]])は、[[中国]][[春秋時代]]の[[晋 (春秋)|晋]]の政治家。[[姓]]は'''贏'''、[[氏]]は'''趙'''、[[諱]]は'''無恤'''、[[諡]]は'''襄'''。'''趙襄子'''と呼ばれる。[[趙鞅]](趙簡子)の末子。
 
===嗣子(嫡子)になる===
趙鞅(趙簡子)が当時人相見として高名であった[[姑布子卿]]を招いて子供たちを見せた時、姑布子卿は無恤のみが大成すると予言した。しかし、無恤の母は[[狄|翟]]族出身で、身分も下卑だった。その上に無恤は末子であったので、この時の趙鞅はこのことを聞き流した。
 
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無恤だけが帰ってきて「宝をみつけました」と言った。趙鞅が「見せてみよ」というと無恤は「常山の頂に立つと[[代]]を見下ろすことが出来ますが、代は取ることが出来ます」と答えた。そこで趙鞅はついに長子の[[趙伯魯|伯魯]]を廃して、末子の無恤を立てた。しかし、長兄の伯魯はこれを恨まず、かえって末弟の無恤を温かく見守り、支えた。無恤も幼い時から自分を可愛がってくれた兄をますます敬ったという。しかし間もなく伯魯は病で逝去してしまった。
 
===代を手に入れる===
やがて、趙鞅が没し嗣子の無恤が代わって立つと、無恤は[[喪服]]を脱がないうちに代王(無恤の姉婿)を偽りで招待して宴を開き、これを討ち取って代を簒奪し手に入れた。夫の代王の非業の死を聞いた無恤の姉は、弟を罵倒して自殺した。やがて無恤はこの代の地を、既に他界した長兄・伯魯の忘れ形見の[[趙伯魯#趙周|趙周]](成君)に治めさせた。無恤は自分が少年の頃から愛情を持って接してくれた亡き長兄・伯魯の子に栄誉を譲り、支えてくれた大恩をやっと報いた。
 
===[[晋陽の戦い]]===
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紀元前453年の智氏の滅亡により、これ以降晋は事実上に[[趙 (戦国)|趙]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓]]に三分された。これをもって、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の幕開けとなる。ちなみに智襄子を滅ぼした後に、智襄子の旧臣[[豫譲]]から2度も暗殺されそうになるが失敗に終わり、豫譲は無恤の前で自害した。この様子は『[[史記]]』の「[[刺客列伝]]」に記されている。
 
===大恩に報いる===
無恤は、後に亡き長兄の伯魯の大恩に更に報いる為、その子である代の成君(趙周)を嗣子に定めようとした。しかし、成君は早世したために、その息子である代君・[[趙伯魯#献侯|趙浣]](後の献侯)を趙の次期当主とした。
 
[[紀元前425年]]に無恤は死去した。「襄」と諡され、後世では'''趙襄子'''と呼ばれる。
 
===その末裔===
『[[史記]]』「'''趙世家'''」によると、無恤は空同氏(一説では[[戎]]の一派)の娘との間に5人の息子を儲けていた。しかし、無恤は兄の孫である趙浣(献侯)を後継者にするために後を継がせずに、息子達に対して「お前達は一族として、[[君主]]を支えよ」と諭したという。だが、これを不満に思った息子達は、無恤の死後に趙浣を放逐し、長兄を当主に立てて趙を治める。しかし、無恤の遺志を踏みにじるこの不孝の行為を国人達は非難し、5人の息子達を処刑して再び趙浣を当主として迎え入れ、無恤の遺志を守った。
 
===趙無恤を題材にした小説===
*[[宮城谷昌光]]「隼の城」『孟夏の太陽』所収,[[文藝春秋]],1991年 (ISBN 4167259052)
*[[塚本青史]]『裂果 趙襄子伝』[[日本放送出版協会]],2004年 (ISBN 4140054468)