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==出自==
丈和の出自については自身では明かすことが無かった。文化2年の『囲碁人名録』には江戸生まれとなっており、[[江戸幕府|公儀]]に提出した親類書では武州[[本庄市|本庄]]の戸谷姓となっており、後に中川亀三郎は生国は不明だが幼時に武州[[熊谷市|熊谷]]あたりで成長したらしいと述べていた。大沢永弘の研究では、伊豆[[西浦村|木負村]]の五十集商(魚の仲買人)葛野七右衛門の次男として生まれ、幼名は一作、貫一。その後江戸で烈元門下となるが、事情で本庄に丁稚奉公に出され、14歳に江戸に戻って奉公人として働いたという。その事情とは、本因坊家を継ぐに相応しい家柄を必要とした事である。その為、[[本庄宿]]の大豪商にして公あるの[[名字帯刀]]を許されていた[[戸谷半兵衛]]の丁稚となった。また、戸谷はその才能を見抜き、中屋に埋もれさせておくには忍びがたいとして、江戸の室町にあった支店島屋に赴任させたとあり、これをきっかけに烈元の門下になったともされる。戸谷家に残る日記帳、伝承などから[[寛政]]年間の末から文化年間の初めまで奉公していた丁稚の己之助が若き日の丈和であったと考えられている。
 
== 評価 ==