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『三国志』魏書荀彧伝によれば、高幹の最終目的は鄴の襲撃だったようである。だが、関西方面で活動していた曹操配下の鍾繇、張既、[[杜畿]]らは、やはり巧みな政略を駆使して高幹を撃破し、また、鄴を守る[[荀衍]]や、別働隊の[[楽進]]・[[李典]]にも攻撃され、高幹はここでも劣勢に追い込まれる。翌建安11年([[206年]])に曹操が自ら大軍を率いて攻めて来ると、高幹は呼廚泉を頼ったが、今度は呼廚泉は援軍を送らなかった。追い詰められた高幹は[[荊|荊州]]の[[劉表]]を頼って落ち延びようとしたが、その途中で上洛都尉王琰に殺害され、首級を曹操に献上された。
=== 人物像 ===
高幹は袁紹の甥ではあったが、『三国志』魏書高柔伝注に引く[[謝承]]『後漢書』によれば、高幹は才能と野心にあふれ、文武に優れた人物だったとされており、単に縁故のみで成り上がった人物ではないことがうかがえよう。その一方で魏の文人[[仲長統]]は、高幹よれば、自信過剰な面ると見ていとのことである。高幹は、2度も曹操陣営背後を衝いて危機招請陥れ応じおり、しかも、建安7年関西進攻でも、建安10年の上党での反逆でも、事前の準備下を訪れた仲長統周到で確かに文武兼備の人材でことは雄志うか有しておられます、雄才を備えておられま曹操にとってはまた正面の袁氏兄弟よりも、むしろ後方執拗に撹乱好んでおられまる高幹の方恐ろ、士を選んでおられません」と忠告い敵だっかも知が、容られるところとい。しかしらず曹操の後方に控え仲長統は去っていた人材層も相応に厚く、高幹の野心の実現は阻まれた。
 
高幹は、2度も曹操陣営の背後を衝いて危機に陥れており、しかも、建安7年の関西進攻でも、建安10年の上党での反逆でも、事前の準備は周到で、確かに文武兼備の人材であったことをうかがわせる。しかし、曹操の後方に控えていた人材層も相応に厚く、高幹の野心の実現は阻まれた。
 
== 物語中の高幹 ==