「ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュ」の版間の差分

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== 生涯 ==
南フランスの[[ペスナ]]に生まれる。パリの[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]で[[歴史学]]を学ぶ。これは、地理学における歴史的な見方の礎となる。1866年に教授資格を取得。1867年に[[アテネ]]の[[フランス学院]]のメンバーになり、アテネへ赴く。機会の折、[[トルコ]]や[[シリア]]、[[エジプト]]などに旅をする。この頃から地理学に興味を抱き、その思いは[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]や[[カール・リッター]]の著作との出会いで決定的となった。1872年にフランスへ帰り、[[ナンシー文科大学]]にて地理学を講ずる。当時の地理学の先進国であった隣国[[ドイツ]]の地理学者、[[シェル]]や[[フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン|リヒトホーフェン]]、[[ラッツェル]]らとも交流を持ち、影響を受けた。1877年には高等師範学校の地理学教授、1889年には[[ソルボンヌ大学]]の地理学教授。彼の元から、マルトンヌや[[マンジョン]]などフランスで第一線で活躍する地理学者が育った。
 
彼は、地理学の中で、ラッツェルの[[環境決定論]]を修正し、人間は環境によって法則的に決定されるのではなく、影響されつつも、それに対して能動的に活動する事ができると考えた。地理学において環境との人間との関係を見ることが重要と考え、各地域での環境との人間との関係も、歴史的な流れの中にあることを指摘、そうした流れの中で、各地の地域における[[地的統一]](''unité terrestre'')と名づけた力と、そこにみられる[[生活様式]](''genre de vie'')とを追求して地域研究を行う立場を表明した。こうした立場で世界各国の地誌の記述を試みる地誌書『Géographie universelle』(世界地理)の完成に取り組んだ。ブラーシュは、責任編集者として、フランスの地理学者たちと取り組んだが、ブラーシュの生前にはかなわず、[[1947年]]に完成した。このシリーズ本は学際的な取り組みで地誌研究はおろか、[[経済学]]や[[社会学]]方面からも評価されている貴重な書である。