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|sv=Europeiska kol- och stålgemenskapen}}
|-
| style="width:50%" | [[ImageFile:Flag of the European Coal and Steel Community 6 Star Version.svg|border|center|125px]] || [[ImageFile:Flag of the European Coal and Steel Community 12 Star Version.svg|border|center|125px]]
|- style="border-bottom:1px solid #aaa; font-size:90%"
| style="width:50%" | 設立時 || 消滅時
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| style="width:50%" | [[ImageFile:ECSC52.png|border|center|150px]] || [[ImageFile:EU1976-1995.svg|border|center|150px]]
|- style="border-bottom:1px solid #aaa; font-size:90%"
| style="width:50%" | 原加盟国 <sup>&dagger;</sup> || 消滅時の加盟国 <sup>&dagger;&dagger;</sup>
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| style="vertical-align:middle" | 公用語 || {{Hidden|[[欧州連合の言語#EUの公用語|11言語(消滅時)]]|[[デンマーク語]]<br />[[オランダ語]]<br />[[英語]]<br />[[フィンランド語]]<br />[[フランス語]]<br />[[ドイツ語]]<br />[[ギリシア語]]<br />[[イタリア語]]<br />[[ポルトガル語]]<br />[[スペイン語]]<br />[[スウェーデン語]]}}
|- style="text-align:left; font-size:90%"
| colspan="2" |<sup>&dagger;</sup> アルジェリアはECSC欧州石炭鉄鋼共同体設立当時、フランスの支配下にあった。<br /><sup>&dagger;&dagger;</sup> 旧東ドイツは再統一時に旧西ドイツに編入された。
|}
 
'''欧州石炭鉄鋼共同体'''(おうしゅうせきたんてっこうきょうどうたい)とは、[[冷戦]]期に6か国によって設立され、のちに[[欧州連合]] (EU) となっていく[[国際機関]]。英語表記の頭文字から '''ECSC''' とも略される。ECSC欧州石炭鉄鋼共同体は[[スープラナショナリズム]]の原則に基づいて設立された最初の機関である。
 
ECSC欧州石炭鉄鋼共同体は1950年5月9日に[[フランス外務省|フランス外相]][[ロベール・シューマン]]が提唱したもので、[[フランス]]と[[ドイツ]]の間での戦争を繰り返さないという考え方に基づいている。その後1951年に[[パリ条約 (1951年)|パリ条約]]が調印されたことを受けてECSC欧州石炭鉄鋼共同体が設立されることになるが、条約の調印にはフランスとドイツ(当時は[[西ドイツ]])だけでなく、[[イタリア]]と、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ルクセンブルク]]の[[ベネルクス]]3か国も加わった。ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の発足によりこれらの調印国の間で[[石炭]]と[[鉄鋼]]の[[共同市場]]を創設することが企図されていた。ECSC欧州石炭鉄鋼共同体は加盟国政府の代表、議会の議員、独立の立場にある司法の監督を受ける最高機関の下で運営がなされた。
 
1957年にはECSC欧州石炭鉄鋼共同体のほかに2つの似たような共同体の設立が決まり、いずれも加盟国や一部の機関を共有するものとなった。1969年にはECSC欧州石炭鉄鋼共同体の機関が[[欧州経済共同体]](ECSC; のちにEUの一部となる)のそれらに統合されたが、共同体としては独自に存続していった。ところが2002年にパリ条約が失効し、また条約が更新されなかったため、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の活動や資源は[[欧州共同体]] (EC) に吸収された。ECSC欧州石炭鉄鋼共同体が存続していた期間で市場の統合は達成したが、石炭・鉄鋼産業の衰退を回避することはできなかったが、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体は将来のEU欧州連合における統合の基盤を創りあげてきた。
 
== 歴史 ==
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=== 政治的圧力 ===
西ドイツではヨーロッパの労働組合や社会主義者の支持を受けているにもかかわらず、[[ドイツ社会民主党|社会民主党]]がシューマンの構想に反対することを決定した。フランスや資本主義、[[コンラート・アデナウアー]]に対する個人的な不信感とは別に[[クルト・シューマッハー]]は、「6か国による小ヨーロッパ」という統合の概念は社会民主党の党是である[[ドイツ再統一]]を覆すもので、西側諸国の[[ファシズム|アルトラナショナリズム]]や共産主義の動きを強めるものだと主張した。またシューマッハーは、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体では鉄鋼産業の国有化が不可能となり、「[[カルテル]]、聖職者、保守派」のヨーロッパが独占することになると考えていた<ref>{{Cite book |last=Orlow |first=Dietrich |title=Common Destiny: A Comparative History of the Dutch, French, and German Social Democratic Parties, 1945-1969 |origyear=2000 |origmonth=March |publisherBerghahn Books |location=Oxford |language=English |id=ISBN 978-1571812254}}</ref>。
 
フランスでは、[[シャルル・ド・ゴール]]がかねてより経済圏の「連携」を支持しており、また1945年には[[ルール地方]]の資源開発を行う「ヨーロッパの同盟」について語っていた。ところがド・ゴールはECSC欧州石炭鉄鋼共同体について、「見せかけの共有」 ''"le pool, ce faux semblant"'' と表現している。ド・ゴールは、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体がヨーロッパの統合においては不十分な「断片的なアプローチ」であり、また共同体におけるフランス政府の優位性があまりにも弱すぎると考えていたのである<ref name="Chopra1974">{{Cite book |last=Chopra |first=Hardev Singh |title=De Gaulle and European Unity |origyear=1974 |publisher=Abhinav Publications |location=New Delhi |language=English |id=ISBN 978-8170170129}}</ref>。また議員総会がヨーロッパ市民の選挙で選ばれていないことからスープラナショナル機関としてECSC欧州石炭鉄鋼共同体は不完全なものであるとも考え、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の設立は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]主導の経済復興からの脱却であるという[[レイモン・アロン]]の主張を受け入れなかった。このような状況でド・ゴール率いる[[フランス国民連合]]はパリ条約批准承認にあたって、[[国民議会 (フランス)|国民議会]]で反対にまわった<ref name="Chopra1974"/>。
 
このような反対勢力があったものの、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体は設立されることになった。
 
=== 条約 ===
ECSC欧州石炭鉄鋼共同体を設立することがうたわれた100か条にわたるパリ条約は1951年4月18日にフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、ルクセンブルク、オランダによって調印された。パリ条約により史上初のスープラナショナリズムに基づく国際機関が設立されることになり、またそもそもが石炭と鉄鋼の共同市場の設立が目的であったものが、共同体における経済の拡大、雇用の増進、市民の生活水準の向上といったことも狙いとなっていた<ref name="ENA TEC"/>。さらに共同市場は、安定と雇用を確保する一方で高水準の製品の流通を合理化するということも企図されていた。石炭の共同市場は1953年2月10日に、鉄鋼市場は同年5月1日にそれぞれ開設された<ref name="ENA TEEC"/>。ECSC欧州石炭鉄鋼共同体が発足したことをうけて、[[ルール国際機関]]はその役目をECSC欧州石炭鉄鋼共同体に譲った<ref>[http://images.library.wisc.edu/History/EFacs/GerRecon/omg1952Jan/reference/history.omg1952jan.i0023.pdf Office of the US High Commissioner for Germany Office of Public Affairs, Public Relations Division, APO 757, US Army, January 1952] "Plans for terminating international authority for the Ruhr" , pp. 61-62 (英語、PDF形式)</ref>。
 
パリ条約の調印から6年後に、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の加盟国は欧州経済共同体 (EEC) と[[欧州原子力共同体]] (EAEC; Euratom) の創設を取りまとめた[[ローマ条約]]に調印した。両共同体は若干の修正がなされているものの、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の持つ構造や理念に基づいて設立されている。パリ条約が発効から50年後に効力を失うのとは異なり、ローマ条約には期限が設定されていない。この新たな共同体はそれぞれ[[関税同盟]]と[[原子力|原子力エネルギー]]での協力体制を構築するものであったが、その後対象とする分野が急速に拡張され、欧州経済共同体が政治面での統合において最も大きな役割を持つようになったのに対して、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の存在感は薄くなっていった<ref name="ENA TEC"/>。
 
=== 統合、消滅 ===
法令上は別個の組織で[[欧州連合理事会|閣僚理事会]]や[[欧州委員会|最高機関・共同体委員会]]もそれぞれに設置されていたが、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体EEC欧州経済共同体Euratom欧州原子力共同体は議員総会(のちの[[欧州議会]])や[[欧州司法裁判所]]を共有していた。その後重複による無駄を省くため、[[ブリュッセル条約]]により3共同体の機関が統合された。またEEC欧州経済共同体はのちのEU欧州連合における[[3つの柱 (EU)|3つの柱]]の1つとなった<ref name="EC TE-ECSC">{{cite web|title=Treaty establishing the European Coal and Steel Community, ECSC Treaty|publisher=EUポータルサイト "EUROPA"|url=http://europa.eu/scadplus/treaties/ecsc_en.htm|language=English|accessdate=2008-05-31}}</ref>。
 
パリ条約はEC欧州諸共同体EU欧州連合が発展、拡大するにつれてたびたび修正がなされていった。また2002年にパリ条約が失効することもあり、その後の対処に関する議論が1990年代初頭から始められたが、規定どおり失効させることが決定された。ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の対象分野についてはローマ条約に移し、未処分の財産やECSC欧州石炭鉄鋼共同体の研究基金については[[ニース条約]]の付属議定書で扱うこととなった。2002年6月23日にパリ条約は失効し、ブリュッセルの[[ベルレモン (建物)|欧州委員会本部]]の前で掲げられていたECSC欧州石炭鉄鋼共同体の旗は降ろされて[[欧州旗]]に取り替えられた<ref name="ENA FLAG">{{cite web|title=Ceremony to mark the expiry of the ECSC Treaty (Brussels, 23 July 2002)|date=2002-07-23|publisher=European NAvigator|url=http://www.ena.lu?lang=2&doc=23600|language=English|accessdate=2008-05-31}}(要Flash Player)</ref>。
 
=== 条約の変遷 ===
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== 機関 ==
{{Main|欧州連合の機構}}
ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の機関には最高機関、共同総会、閣僚特別理事会、司法裁判所があった。また付属機関として諮問評議会が最高機関に設置されていた。これらの機関は1967年のEC[[欧州諸共同体]]発足時に統合されたが、諮問評議会だけは2002年のパリ条約失効時まで独立して存続していた<ref name="ENA TEEC">{{cite web|title=The Treaties establishing the European Communities|publisher=European NAvigator|url=http://www.ena.lu?lang=2&doc=16393|language=English|accessdate=2008-05-31}} (要Flash Player)</ref><ref name="ENA CC"/>。
 
パリ条約では機関の所在地について加盟国の総意で決めるよううたっていたが、これについては激しい議論となった。その場しのぎの妥協として、共同総会は[[ストラスブール]]としたものの、それ以外の機関は暫定的に[[ルクセンブルク (都市)|ルクセンブルク]]に置かれた<ref name="ENA seats">{{cite web|first=|title=The seats of the institutions of the European Union|date=|url=http://www.ena.lu?lang=2&doc=20822|publisher=European NAvigator|language=English|accessdate=2008-05-31}} (要Flash Player)</ref>。
 
=== 最高機関 ===
[[ImageFile:Luxembourg0080.JPG|thumb|right|300px|ルクセンブルク国立貯蓄銀行本館<br /><small>ECSC欧州石炭鉄鋼共同体最高機関の本部が置かれていた。</small>]]
[[欧州委員会]]の前身である最高機関は9人で構成され、共同体の運営にあたる執行機関である。フランス、西ドイツ、イタリアから2人ずつが、ベネルクスから1人ずつが委員に任命された。委員に任命された9人は自らの中から1人を[[欧州委員会委員長|委員長]]に指名する<ref name="ENA TEEC"/>。
 
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[[欧州連合理事会]]の前身である閣僚特別理事会は各国政府の代表者で構成されていた。また[[欧州連合理事会議長国|議長]]は加盟国が3か月ごとにアルファベット順の輪番制で務めていた。閣僚特別理事会の重要な点は最高機関と各国政府の政策執行の調整であり、当時国内の一般的な経済政策については加盟国政府があたっていた。さらに理事会は最高機関が担当する政策のなかで、特定分野について意見を述べることが求められていた<ref name="ENA TEEC"/>。石炭と鉄鋼に関する案件に限っては最高機関が排他的に扱い、これらの政策分野について理事会はただ監視にあたるのみであった。ところが石炭と鉄鋼以外の政策分野では理事会の同意が求められた<ref>{{cite web|title=Council of the European Union|publisher=European NAvigator|url=http://www.ena.lu/?lang=2&doc=5604|language=English|accessdate=2008-05-31}} (要Flash Player)</ref>。
 
司法裁判所の使命はパリ条約の解釈・適用を行い、ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の法令遵守を確保することであった。裁判所は各国政府の総意で任命された7人の判事で構成され、任期は6年である。判事の国籍については問われることがなく、ただ適性が認められ、その独自性に疑念がもたれないということが要件となっている。さらに2人の法務官が裁判所を補佐している<ref name="ENA TEEC"/>。
 
EU欧州連合の[[欧州経済社会評議会 (EU)|経済社会評議会]]に似たような機関であった諮問評議会は、石炭・鉄鋼産業の生産者、労働者、消費者、販売者から人数が平等にされた、30人から50人ほどの議員で構成されていた。議員の任期は2年間で、任命した組織の負託や制約を受けていない人物とされていた。評議会には全員出席の総会、事務局、議長が設置されていた。最高機関は評議会に対して、特定の分野の案件について適切な機会に諮問し、また情報を開示する義務を負っていた<ref name="ENA TEEC"/>。ほかの機関が統合されていったなかで2002年まで諮問評議会は独立性を維持し、パリ条約が失効した後は経済社会委員会にその機能が引き継がれた。ただしそれぞれに同じ案件が諮られたときは、独立性を維持しつつも諮問評議会は経済社会評議会と協調していた<ref name="ENA CC">{{cite web|publisher = European NAvigator|title =
European Economic and Social Committee and ECSC Consultative Committee |url=http://www.ena.lu?lang=2&doc=8594|language=English|accessdate = 2008-05-31}}</ref>。
 
== 成果と失敗 ==
ECSC欧州石炭鉄鋼共同体は石炭と鉄鋼の生産にあまり影響をもたらすことはなく、世界の傾向と比較すると鉄鋼の生産量は増加したが、石炭の生産量は減少した。しかしながら加盟国間では、石炭の貿易量は10倍となるなど通商関係が促進され、またアメリカからの資源輸入の必要性がなくなったことで域外への資金流出が抑えられた。最高機関は生産量の向上と経費削減を促すために産業界に280件の融資も実施していた。また国境通過のさいの関税を廃止したことで、産業界にとっては経費がさらに削減されることになった<ref name="Mathieu">{{cite web|last=Mathieu|first=Gilbert|title=The history of the ECSC: good times and bad|publisher=[[ルモンド|Le Monde]], accessed on European NAvigator|date=1970-05-09|url=http://www.ena.lu?lang=2&doc=16472|language=English|accessdate=2008-05-31}} (要Flash Player)</ref>。
 
ECSC欧州石炭鉄鋼共同体の最大の成果は経済面においてではなく、福祉の面において見られる。15年以上にわたり労働者に対して11万2500件の共同住宅購入向けの融資を実施し、1件あたり平均で1,770[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]を貸与されたことで労働者は手の届かなかった住宅を購入することができた。さらにECSC欧州石炭鉄鋼共同体は、石炭・鉄鋼関連施設が閉鎖されて職を失った労働者の転職にかかる費用の半額を支払った。地域の再開発支援とあわせてECSC欧州石炭鉄鋼共同体は1億5000万ドルを拠出して10万件の雇用を創出し、その3分の1は失業した石炭・鉄鋼関連の労働者に割り当てた。ECSC欧州石炭鉄鋼共同体が考案した社会保障政策は加盟国政府の一部で石炭・鉄鋼業以外の労働者にもその対象を広げられていた<ref name="Mathieu"/>。
 
一方でECSC欧州石炭鉄鋼共同体はパリ条約でうたわれたいくつかの根本的な目的を達成しそこねている。ECSC欧州石炭鉄鋼共同体では[[アドルフ・ヒトラー]]が権力を強めるのに役立てた[[コンツェルン]]のような、大規模な石炭・鉄鋼グループの復活を阻止することが期待されていた。ところがカルテルや大企業が再び現れ、価格操作がなされていくようになった。さらに適切なエネルギー政策を明確にすることができず、また域内市場の労働者賃金の向上・均質化を確保することもできなかった。これらの未達成の目的はそもそもが短期間で実現することが不可能なものや、あるいは単に蔑ろにされるような政治的なポーズに過ぎなかったものであったという考え方がある<ref name="Mathieu"/>。
 
== 脚注 ==